2009.11.16

マリス・ヤンソンスのリハーサルを見学する幸運に恵まれました。

◆来日中のマリス=ヤンソンスとバイエルン放送響による、東京音大オケ「幻想」リハーサル

細かく話すと長くなる。家内はピアニストではないが、東京音大のOGである。

OG・OBには、一般には非公開の催し物の連絡や招待状がくる。

数週間前、11月13日、東京音大の新しいホールで、ちょうど来日する指揮者、マリスヤンソンスが、東京音大の学生オケの指導をする

「公開リハーサル」を行う。無料。先着順で満席になり次第、受付終了、という手紙があった。

東京音大オケがヨーロッパ演奏旅行に行ったときに、バイエルン放送響のメンバーが聞いて、

気に入られたのだそうだ。


家内が私に聞きたい(見たいか)否かを問うので、勿論聞きたい、と答えた。

幸いチケットが取れた。他にもバイエルン放送響メンバーによる、東京音大学生への室内楽のリハーサルなど

盛りだくさんだが、メインはあくまでも、ヤンソンスによる、ベルリオーズ「幻想交響曲」公開リハーサルだ。


プロのオーケストラは、原則リハーサルは公開しない(例外があることは知っている)。

しかし、子どもの頃から私は、一度で良いからオーケストラのリハーサルを見学したい、と思っていた。

今回は、純粋なリハーサルというか、学生オケを、ヤンソンスが振るわけである。

マリス・ヤンソンスの略歴はこの通り

旧ソ連の最高のオーケストラである旧レニングラード・フィルをはじめ、

ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、オランダの超一流、ロイヤル・コンセルトヘボウ、

2003年、バイエルン放送交響楽団の首席指揮者に就任。現在、同交響楽団と2度目の来日中である。


巨匠である。巨匠がオーケストラにどういう要求をしてどのようにリハーサルを進行するのか。

40年、オーケストラが好きでたまらない私には堪えられない。

苦労したから神様のご褒美だろう、と、都合の良いときだけ神様を持ち出して、

勝手にそう思いこんだ。


◆遂にその日が来た。

公開リハーサルは午後4時から。普通絶対に行けないが、これは一生に一度あるか無いか、

というほどの機会である。詳細は省くがとにかく都合を付けて、会場に向かい、現地で家内と落ち合った。

これが当日のプログラムである。

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ヤンソンスは、にこやかに登場した。学生オケは、この頃の子だねえ。相手が天下のヤンソンスだろうが、

だれだろうが、緊張しないらしい。リハーサルだし、学生もヤンソンスも普段着で、リハが始まった。

始まる前、ヤンソンスは客席のわずかにノイズにも神経質だったが、呼ばれているのは、全て東京音大の

何らかの関係者で、生まれて初めてオーケストラを聴くというレベルの人はいないので、あっと言う間に

完全な静寂が訪れた。

練習時間が限られている(16時から17時半)から、終楽章(第5楽章)に絞っての相当大急ぎのリハーサルだった。

しかし、東京音大学生オケは、流石にプロになろうという子ども達。技術的には完全に出来上がっている。

奏法上の指導をする必要はなく、ヤンソンスは音楽的な要求だけをすればよい。


最初に第5楽章を通した。敢えてヤンソンスは止めなかった。

上手い。素人の耳には、これでも十分カネを取って客に聞かせることが出来るレベルだ。


◆ヤンソンスの要求。

お断りしておくが、以下は、私が見学しながら、取ったメモを元にしている。

ヤンソンス氏はラトビア人だが、オーケストラのリハーサルではドイツ語で行うことが多いようだ。

英語はあまり得意ではない。しかし、音大の学生諸君はドイツ語は分からない。

日本人女性のドイツ語通訳と、バイエルン放送響の第1ヴァイオリンで30年以上も弾いておられる、

水嶋さんという女性奏者がマエストロの意図を何とか学生に分からせるべく訳して下さった。

それを忠実にメモしたつもりだが、勘違い、聞き間違いなどがあるかも知れない。

まあ、学術論文じゃないから、勘弁してつかあさい。

要求1:冒頭の弦の刻み、ppだが、もっと弱く。

要求2:同じページ。3小節目。32分音符3つと32分休符1つ、が8回繰り返される。普通に弾いたら、ダウン(下げ弓)アップ(上げ弓)交互で、

最後はアップになるが、ダウンで弾く。
要求3:4小節目の6連符の半音階的下降音型、pppだもっと弱く。

要求4:その次の小節、ヴァイオリン・ヴィオラのピチカート。fに相応しく力強く。ややクレッシェンド気味に。

要求5:99ページ、2~3小節目にかけての

木管のグリッサンド(JIRO注:これ、難しいと思います)。ピッコロ、グリッサンドになっていないと何度かやり直し。

要求6:木管に続き、3番ホルンが同じ事をする。グリッサンドの前のcon sordino(弱音器)のところ。ホルン奏者は右手をベル(朝顔)

の中で操作して、わざと「詰まった」ような音を出す。最初の音がヤンソンス不満で何度かやり直し。

要求7:練習番号65の4小節目からファゴット。

最後のC音に向けて、もっとディミヌエンドできるか?と。ファゴットの学生が何と返答したか聞こえず。

要求8:続く鐘(チューブラーベル)、フォルテとピアノ、ピアニッシモの差が出てない。強弱の差が明らかになるように。

要求9:練習番号「66」7小節目から、テューバとファゴットが吹く、グレゴリオ聖歌。大変宜しい。

要求10:それに続く、110ページ2小節目からのホルンとトロンボーン。

祈るように。付点四分音符をいちいちアクセント気味に強調しない。平坦に。テヌートで。余計なことしない。

要求11:(一般的要求)金管、この楽章どうしても吹きすぎになる傾向があるから、心持ち、抑えて。バランスを考えて。


(JIRO注:キリがないので途中飛ばします)

要求12:随所にある、特に弦のスフォルツァンドは、決しておろそかにしない。全てキチンと実行せよ。

要求13:コーダに向かう練習番号85。バスドラム(大太鼓)、

短い周期でピアニッシモからフォルティッシモまでのクレッシェンド、ディミヌエンドのロールが続く。思い切り強調するように。

要求14:コーダから、早くクレシェンドし過ぎない。ちゃんと自分(ヤンソンス)が指示するから。

まだ、色々あるのだが、文字で書いても空しい。しかし、

ただ、「ヤンソンスのリハーサルを見た。素晴らしかった」では、子どもの作文になる。

本来、それぞれの要求があった箇所が、どのように演奏されるか、CDの一部でも音を編集して載せたいが、

ものすごく手間がかかるので、それはサボらせて頂いた。

話が逸れたけれども、最後にもう一度、通した。コーダから、ヤンソンス氏は、故意に一度目よりも強烈な

クレッシェンドと、アッチェレランドをかけたが、東京音大オケは、見事に反応していた。

また、話が前後するが、ヤンソンス氏の音楽的な要求に、一度で即座に対応し、一度言われたことは決して忘れない。

プロを目指す人達だから当たり前、と言ってしまっては実も蓋もない。

徒に若さに任せて突進するわけでも、何度も演って妙に分かったようになってしまうプロの演奏(たまにある)とも異なり

非常にレベルの高い、音楽だった。素晴らしい。彼らには大輪の花を咲かせて貰いたい。


◆この他、室内楽の本番があった。

このとおり、「幻想」のリハーサルの後は、東京音大の学生とバイエルン放送響のメンバーによる室内楽

(メンデルスゾーン、ドヴォルザーク)と、学生のみによる、R・シュトラウス

「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」木管合奏版(正確にはピアノ、フルート、オーボエ、ホルン、ファゴット、クラリネット)

があった。全て見事な演奏で、本来個別に名前を挙げて賞賛したいのだが、まだ学生さんだから、

万が一迷惑がかかってはいけないので縁了する。しかしいずれも素晴らしい完成度であった。

「ティル」木管版は、ホルン以外全員女性だった。ティル・オイレンシュピーゲルでは、冒頭に、

有名なホルン・ソロがある。実に見事だった。あまり感心したので、終演後、ロビーで目の前を通る

ホルンの学生さんに声をかけ、絶賛した。お世辞ではない。お世辞など言う理由がない。

但し、いつも書いている通り、日本人は褒めるのが下手だ。

しかし、褒められて怒り出す奴はいない。

優れた若い才能は、どんどん褒めるべきだ。


◆最後にミーハーですが、マエストロ・ヤンソンスにサインをして貰ったので、自慢します。

普通のコンサートなら、ガードが堅くてなかなか、これほどの巨匠には近づけない(CD即売会などは別)。
東京音大100周年記念ホールは、さほど大きなホールではなく、

ヤンソンスが楽屋から出てくるところにばったり遭遇したので「幻想交響曲」のポケットスコアに

サインを貰った。家宝にしよう。

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今まで生きてきた甲斐があった。幸せだった。

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2009.11.14

20年前の11月13日、日本で初めての生体肝移植が行われました。

◆毎年、11月13日はこの話を書きます。

何度も同じ内容の記事をブログに書いています。

人間は、とりわけ日本人は、大切なことを直ぐに忘れる傾向にあります。

また、アクセス解析を見ると分かりますが、当ブログには毎日「初めて」の読者がいらっしゃいます。

特に若い方は、1989年11月13日に当時の島根医科大学(現在の島根大学医学部)で日本で初めての

生体肝移植が行われたことをご存じないか、まだ幼くて理解できなかったと思うのです。

当時、既に大人だった方も、忘れがちです。

だから毎年、私はリマインダーとして、同じ事を書きます。

おこがましい表現になりますが、日本で他に、これをやるブログは、

多分、存在しないと思います。


◆そもそもの始まり。

移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。

山口県玖珂郡和木町、岩国市のすぐ北、広島との県境で開業していた木村直躬医師に、

裕弥ちゃんのおばあさんが、そのことを告げました。1988(昭和63)年12月のことです。

木村先生はエコー(超音波)で、ただちに、杉本裕弥ちゃんが、先天性胆道閉鎖症という病気である、と診断しました。

先天性胆道閉鎖症とは、生まれつき胆汁が流れ出る道がふさがっていて、胆汁が肝臓へ流れていかないので、

黄疸が段々強くなり、しまいには、肝硬変で死に至る病です。


◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。

この世に生を受けて間もない赤ん坊が、可哀想なことに、何度も手術を受ける運命にあったのです。

木村先生の紹介で、地元山口県の国立岩國病院の小児外科により、胆管を何とか開く手術が行われました。

1度では上手く行かず、2度目の手術も失敗でした。

岩國病院の担当医から、木村先生(最初に裕弥ちゃんを診察した開業医の先生)の元に、手紙が来て、

「この子の予後はホープレス(望みがない)」とのことでした。残酷な宣告です。

それでも、裕弥ちゃんの家族は諦めませんでした。

木村先生に、何とか手段は無いか、と聞きました。先生は肝移植以外に道はない。といいました。

日本では、移植手術はタブーとされていました。

1968年札幌医大で行われた日本初の心臓移植手術の失敗が、その背景にありますが、その説明は省きます。

日本木村先生はオーストラリアの病院に問い合わせましたが、オーストラリアの病院は

「生体肝移植は難しくて無理だ。」という、つれない返事をよこしてきました。

しかし、木村先生も諦めませんでした。


◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。

木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。

木村先生は内科、永末先生は外科ですが、肝臓を専門とすることで共通していました。

木村先生がエコーで肝臓ガンを診断し、永末先生が切除可能な肝ガンの手術を6年間で200例も手がけていました。

木村先生は「生体肝移植を頼むなら、(島根医大に移った)永末君しかいない」と思いました。

永末先生は、最初あまり乗り気ではなく、オーストラリアの病院で手術を受けることを進めました。

これは、前述の通り当時の日本の医学界で「移植」という言葉はタブーだったのです。

このタブーを破った医師は、医師生命を絶たれる危険がありました。ですから、最初に永末先生が積極的ではなかったことも、

無理からぬことだったと言って良いでしょう。

ところが、木村先生は諦めませんでした。講演のため、広島に来た永末先生に会い、

とにかく裕弥ちゃんの診察だけでもしてくれ、と、頼みました。永末先生は引き受けました。

永末医師が初めて診る裕弥ちゃんは、黄疸が強く出ていて、溜まった腹水でおなかがパンパンに膨れて、静脈が浮き出ていました。

既に食道静脈瘤が出来ている可能性があり、これでは、いつ吐血してもおかしくない。

吐血しなくてもあと1ヶ月ほどの命、と永末先生は思いました。まだ、生後一年経っていない赤ん坊が肝硬変です。残酷な現実でした。

裕弥ちゃんの体力が移植手術に耐えられるか、五分五分だと考えました。


◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。

永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、


  • 正確なことは精密検査をしないと分からないが、移植手術は出来そうなこと。

  • 但し、島根医大の永末医師のグループでは生体肝移植の経験がないので、上手くいくかどうか保証できないこと。

  • 手術まで持ち込めても、裕弥ちゃんの全身状態があまりにも悪いので、手術に持ちこたえられずに亡くなる可能性も高いこと、


という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。

永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。
このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。

そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。
「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」

15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。
「お願いします」

その言葉に永末先生の気持ちが動きました。

「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。

ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。


◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。

永末先生の気持ちは固まりました。

当時永末先生は助教授でしたから、第二外科の部長中村教授の了解も取り付けました。

自分の研究室に戻った永末先生は、肝臓グループの医師たちに、裕弥ちゃんの生体肝移植を引き受けることにした、と言いました。

医師達は全員無言になりました。

「日本で初めての生体肝移植」であることに加え、裕弥ちゃんの症状が悪すぎる、と専門医たちは誰もが思ったのです。

スタッフが躊躇っているのを見て、永末先生は、言いました。

「赤ちゃんは死にかけている。家族は結果は問わないからやってくれという。責任は全て私が取る。目の前の赤ちゃんを救えないような研究なら意味は無い。もしこの移植を拒むなら、明日から移植の研究など止めてしまおう

第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。


◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。

手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。

中村先生は、心配していました。

「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。

しかし、君はこの手術で全てを失うかも知れない。僕はそれがいちばん心配だ。本当に君はそうなってもかまわないのか」

その都度、永末先生は答えました。
「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」

この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。

しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。

後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。

「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」

淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。

これほど立派な医師を見たことがありません。

裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。

そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。

家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、

チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。

母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。

島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。

それはそれで、良いことです。

しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。

島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。

島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。

永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。

永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。

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