16年前の今日(11月13日)日本で初めての生体肝移植が行われました。
◆16年前の今日(11月13日)日本で初めての生体肝移植が行われました。
初めて日本で生体肝移植が行われたのは、1989年11月13日、島根医大付属病院第二外科だった。
そのときのいきさつは、三年前、Enpituにかなり詳しく書いたので、是非読んで頂きたい。
これから書くことは、3年前と重複する部分がかなりあるが、書かずにいられない。
1960年代に札幌医大で心臓移植が行われたが、残念ながら失敗に終わった。
その際、ドナーが本当に脳死状態だったのか、また、レシピエント(臓器の提供を受ける患者)が本当に、移植適応だったのか、などの疑惑が生じた。
その他恐らく「白い巨塔」の中で賛否両論があったのだろう。すったもんだの大騒ぎに発展した。
移植の執刀医は殺人罪、業務上過失致死罪で告発されるが、結局不起訴となった。
それ以来、30年間、日本の医学界では「移植」はタブーとなり、この分野で他国に遅れを取ったと云われる。
その「移植=タブー」の不文律があるのに、島根医大第二外科、永末直文当時助教授が生体肝移植の実行を決断したのである。
◆「初めて」のことを手がける勇気
この、「初めてやる」という決断は医療に限らず大変に勇気がいることである。
失敗したら勿論、散々叩かれるし、成功してもやっかみで色々と云われる。それは100%の確率で起きる。
永末医師ら島根医大のチームの上層部は失敗したら、大学を追われる覚悟でいた。
島根医大の第二外科では、ブタを用いた肝移植の研究を行っていた。
つまり、いずれはという気持ちは、医局員は皆抱いていたのだろうが、あまりにも突然、現実となった。
医局員全員(ナースも含めて)を集めたミーティングの席で、手術を行うつもりだという永末助教授の言葉を聞いて、全員押し黙ってしまった。
すると、永末医師は、
「我々は、肝移植を標榜している。赤ちゃんは死にかけている。家族は結果は問わないから、やってくれと云う。これで、この手術を断るぐらいなら、明日から、肝移植の研究など、全て止めよう」
と云った。これで全員、肚をくくった。
当時の手記では、永末医師は、失敗したら故郷の福岡に帰り、開業医になればいいと思っていた、と書いていた。
それだけでも感激したが、後年、NHKの「プロジェクトX」に出演した折、実は医師も辞めなければならなくなるかもしれないというところまで覚悟を決めていた、と永末医師は語った。
「私は英語が得意だから、塾で英語を教えれば食べるぐらいは何とかなるのではないかと思った」 と淡々と語る永末氏の言葉を聞いた人は多いと思う。
あの言葉に心を動かされない人は、自分の人格に問題がある可能性を疑った方が良い。
私の身内の者がその生体肝移植チームの一員だったので、どれほどすさまじい闘いであったか、分かるとは云わぬが、かなり知っている。
とにかく半年ぐらい、歩いて3分のところにある自宅に帰れない。
奥さんが着替えと弁当を持ってくる。ありとあらゆる合併症が起きる。
それが何時起きるか勿論分からないので、24時間、緊張の連続であったという。
いくら医師になる人材が優秀だと云っても、人間が他の人間の命を救うため、
これ以上出来ないほどの努力を続けている姿は「神々しい」(こうごうしい)といって良いぐらいだった。
また、永末医師は移植手術への日本社会の偏見をなくすためには、全てを明らかにするべきだといい、
移植手術中の比較的重要ではないエラーも含めて、治療上の失敗を全て公表して、「この部分は、自分の失敗だ」と記者会見で述べた。
とにかく、その立派さは並ではない。
◆杉本裕也ちゃんは助からなかった。
ありとあらゆる努力を重ねたのに、結局裕也ちゃんは助からなかった。
しかし、家族は、島根医大第2外科の医師、ナース、あらゆる人がどれほど、全力を尽くしたかを十二分に理解していたので、
未練がましいことは一言も言わず、永末医師らに感謝した。
裕也ちゃんが亡くなった後、弟が生まれた。お母さんは、永末直文の「直」と裕也の「也」を取って、「直也」と名付けた。
島根医大のあと、京大や信州大が生体肝移植を次々と手がけて、成功した。
私は、それは、その手術によって助かった患者さんがいるのだから、良いことなのだが、どこか、「狡いなあ」という気持ちを抑えられなかった。
旧帝大系の大学は、結局、自分は最初にやらずに新しい大学に一例目をやらせておいて、
その時の経過を参考にして、手柄だけ持っていったような印象を否めない。
◆この本を読むべきだ。
今、Amazonで、「生体肝移植」で検索すると、自民党の河野洋平と息子の太郎の本が一番売れているようだが、これはどうでもいい。
大学が書いた本では、岩波新書の生体肝移植―京大チームの挑戦が一番読まれているようだ。
しかし、私は何と言っても、日本で最初にタブーとされてきた「移植手術」の突破口を開いた島根医大の勇気と努力と功績を讃えたい。
永末先生が中心になって、他のチームメンバーも少しずつ書いたものをまとめた決断―生体肝移植の軌跡こそ、最初に読まれるべきだと確信する。
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コメント
yossy1814さん、こんにちは。コメントを頂きながら、レスが遅くなりしつれいしました。
コメントを頂いた翌日、ご覧のとおり、また、あの手術についてかきました。
あのときに、島根医大におられたとは!
当時の島根医大第二外科は、裕也ちゃんがいて、それ以外にも普通の外来、オペ、病棟
の患者さんがいたのですから、殆ど発狂寸前の忙しさであったと想像いたします。
ご存知とはおもいますが、あの手術のあとも、永末先生たちは試行錯誤の連続で、海外
から論文を至急取り寄せてしらべたり、とにかくできることは全てやっていたのであろ
うことは、素人である私にもわかります。本当に尊敬します。
yossy1814さんも17年を経て、最早大先生ですね。さぞやご苦労が多いかと思います(特に、小泉政権以降)。
すぐに医師を提訴するバカな患者が増える一方で、医学、医療の崇高さに敬意を抱く私のような者も大勢います。
どうか、ご多忙とはおもいますが、ご自愛下さい。
それでは、失礼します。
投稿: JIRO | 2006.11.18 22:36
日本初の生体肝移植が行われた日の夕方、島根医大の5年生だった僕は、先輩のレポート作りを手伝っていました。テレビの速報で自分の大学が報道されていて驚きました。
その前日に沢田研二と田中裕子が隣町の大社町にある出雲大社で結婚式を挙げ、報道関係の方が出雲市内で泊まっていたそうです。早い段階でマスコミに手術が察知されたのはジュリーのせいかも、と言っていた先輩がいました。
手術の翌日ポリクリ(臨床実習)で僕たちのグループは患児から摘出された肝臓を目にする機会を得ました。ホルマリン漬けの肝臓が不気味な緑色に染まっていました。
あれから17年経ったんですね。伝え聞くところでは、肝移植を受けた患者さんが数年で肝硬変に陥るケースが多いことが明らかとなり、それを防ぐ手だてについての検討もされているそうです。医療って、常に前進しなければいけないんだ、と思います。
投稿: yossy1814 | 2006.11.14 00:46