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2006.08.06

広島・長崎の日(8月6日・9日)だけ神妙になってもダメだ。

◆「原爆投下は不要だった」と終戦翌年、大統領に提出された報告書に書かれている。

米国は、原爆投下を「戦争の早期終結に寄与した」といって、正当化しようとするが、それは、違う。

原爆を投下しなかったら、日本はポツダム宣言を受け入れなかったことは証明できないからである。

それどころか、原爆投下後、米戦略爆撃調査団という政府の調査団が日本に来て、日本各地を視察・調査した報告書をまとめた。

それを終戦の翌年、1946年7月、原爆投下を決定したトルーマン大統領に提出した。その趣旨は、

「あらゆる可能性を考えに入れても(原爆投下、ソ連参戦、本土上陸作戦がなかったとしても)1945年11月1日までに-中略-(日本は)無条件降伏していただろう」

というものだった。

また、アメリカのピューリッツァー賞を受賞したジャーナリスト、ラッセル・ベーカーは、

新たな歴史編纂の歴史家の結論は、原爆投下は不要で あった。1945年当時のアメリカ人は、誰もが原爆が奇跡の終結をもたらしたと思った。歴史家たちは彼らが「騙されていた」とする。トルーマンは一つは力を誇示したいため(ルーズベルトと代ったばかりで無名)、もう一つはソ連に対日参戦は認めるが、その功績は与えるつもりはなく、原爆の威力をスターリンに示すため。戦争早期終結のためではなく、世界の権力闘争を開始するため。日本の降伏には他の方法で対処できた。

と主張する。

更に、歴史家のカイ・バード氏もやはり長年に亘り、広島長崎への原爆投下は不要だったと言い続けている。

そして、アメリカの歴史学者の一般的傾向として、

「仮に広島への原爆投下が早期戦争終結に必要だった、という前提に立っても、2回目の長崎への原爆投下はどう考えても正当化できない」

という見解を表明する者が増えているという。


◆アメリカこそ、テロリストの「先駆者」だ。

「テロリズム」の国際的な定義は定められていない。

これは、行為の主体の問題(民族的、宗教的、思想的背景をもつ非国家組織だけなのか、国家もテロリズムの主体に含めるのか)と

行為の範囲(テロリズムとして認定する行為の型、構成要件)がはっきり線引きできていないからである。

しかしながら、確実に言えるのは、「一般市民(非戦闘員)を標的にしている」、という点である。



広島・長崎の原爆による死者数は34万で、全てが非戦闘員だった。

この点に着目すれば、太平洋戦争の経緯とは無関係に、米国による、2度にわたる原爆投下は、永遠に許されないテロリズムである。

ブッシュ大統領ほど、滑稽な米国大統領も珍しい。

イラクや北朝鮮を悪の枢軸と呼び、テロ国家呼ばわりしているが、米国こそ人類史上最悪のテロリストである。


◆8月6日、9日の原爆犠牲者追悼式、15日の戦没者追悼式のときだけ急に殊勝なことを言ってもダメだ。

と、書くと僭越だが、敢えて書かせていただく。

何年もWeb日記やブログを書いていると、自然と他の方々の日記、ブログの見出しが目に入る。

内容まで全部読むことは不可能だが、見出しだけでも充分分かることがある。

今日(8月6日)のように歴史的にあまりにも重大な出来事があったときには「戦争犠牲者を忘れてはならない」など、模範解答を書く人が自然と増える。

しかし、その日だけである。翌日になったら、レバノンでイスラエルの空爆で子供が殺されていようが、全く関心がない、

というのが一般的な日本人の傾向である。



思うに、広島・長崎に原爆が投下された日や終戦記念日だけでも、「時事ネタ」「戦争ネタ」

(私はこのネタという言葉が大嫌いなのだ。落語や漫才のネタはあるが、時事問題は「ネタ」ではない)を取り上げ、

束の間でも「戦争犠牲者に思いを馳せる自分」に安心し、「天下国家に関して全く無関心ではない自分」に満足するのだろう。それでは困る。


◆「平和」を願うのであれば、日頃から関心を。

一昨日、自民党総裁選各候補者について書いた。

注目すべき点は、日本国憲法第9条をどうするつもりか、ということだとも書いた。

これは、「集団的自衛権」を認めるか否か、という点である。



「集団的自衛権」など調べれば分かることなのに、勝手な自分の思いこみで「反論メール」を頂くことがある。

私は、「集団的自衛権」は絶対に認めてはいけないとしばしば書くからだが、何度も説明している。



「集団的自衛権」とは、

「自国が武力による攻撃を全く受けていなくても、同盟国が第3国から武力攻撃を受けた場合には、これを自国への攻撃と同等のものと見なし、武力をもって反撃することができる権利」

である。

私が「集団的自衛権を認めるべきではない」と書いたときにやってくる反論(?)はそれを分からずに、

「自分の国を守って何が悪い?」という。

私はそんなことはいっていない。昨年8月21日に書いたが、繰り返すと、

自国が攻められたら武力で応酬するのは、個人における「正当防衛」のようなもので、これを日本国憲法が禁止しているとは考えられない。

何故なら、憲法は前文においてなによりもまず、国民の「平和的生存権」は守られなければならない、と述べているからだ。

勘違いしている人達は、私の想像だが、この場合、在日米軍が日本の防衛に力を貸してくれるはずで、

アメリカと一緒に「集団」で「自衛」するから、これを「集団的自衛権」というのだ、と思いこんでいるのではないか?

もう一度書くが、自国が攻撃されているのだから、日本はあくまでも個別的自衛権を行使しているのであり、アメリカが集団的自衛権を行使しているのである。

アメリカが集団的自衛権を行使するのは、彼の国の憲法が禁止していないからである。

「それでは、アメリカが攻撃されたときに助けなければ悪いじゃないか。」というのはあまりにも稚拙な発想である。



第2次大戦が終わった後も、アメリカは必ずどこかで戦争をしている。

日本が集団的自衛権を持つと言うことは、必ずアメリカの戦争に巻き込まれるということである。どこまでエスカレートするか分かったものではない。

集団的自衛権を認めていない現在ですら、イラク戦争後、アーミテージ前・国務副長官が来日して「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と一喝したら、

日本政府はアワを食ってイラク復興支援特別措置法定め、自衛隊イラク派遣を決定した。

それでも武力行使を認めていないから、海外で発砲せずに済んだが、サマワの自衛官は何度となく危ない目に遭った。



一旦、集団的自衛権を認めたら、自国が攻撃されたときと同じなのだから、海外で武力を行使せざるを得なくなる。

一度この禁を破ったら、絶対に限りなくエスカレートしてゆくだろう。後戻りはできない。日本は戦争をする国になるのである。



だから、私は「日本が集団的自衛権を持つべきだ」と主張する人は一体何を考えているのか、と思う。

前の戦争からたった60年で、また「戦争をする国」に逆戻りするとしたら、これほどバカな国は無い。

そして、そういう国にするかどうかは主権者たる国民が決めるのである。

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