19年前の11月13日、日本初の生体肝移植が行われました。
◆毎年書いていますが、今年も書きます。忘れてはいけないことだからです。
人間の崇高で偉大な行為は忘れられるべきではありません。
デール・カーネギーが書いているように、世の中の殆どの人間は、1日の99%は、「自分の事だけ」を考えて
生きています。20年近く前に行われた、赤の他人の手術のことなどすぐに忘れてしまいます。
だから、私は殆ど毎年、この話を思い出して頂くべく、書くことにしています。
昨年と内容は全く同じですが、去年読まなかったが、今年は読んで下さる方もいるでしょう。
今日、初めて、この歴史的事実を知る人もいるでしょう。繰り返し、同じ事を書くということは、
大事なことなのです。今日、全国紙にざっと目を通しましたが、この話に触れている新聞はありませんでした。
テレビは、全て見るのは不可能ですので、或いは何処かのテレビが取りあげたかも知れませんが、私の見た範囲内では、
どのテレビ局も「19年前、日本初の生体肝移植手術が島根医大で行われた」ことを伝えていませんでした。
だから、私がやります。
◆そもそもの始まり。
移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。
山口県玖珂郡和木町、岩国市のすぐ北、広島との県境で開業していた木村直躬医師に、
裕弥ちゃんのおばあさんが、そのことを告げました。1988(昭和63)年12月のことです。
木村先生はエコー(超音波)で、ただちに、杉本裕弥ちゃんが、先天性胆道閉鎖症という病気である、と診断しました。
先天性胆道閉鎖症とは、生まれつき胆汁が流れ出る道がふさがっていて、胆汁が肝臓へ流れていかないので、
黄疸が段々強くなり、しまいには、肝硬変で死に至る病です。
◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。
この世に生を受けて間もない赤ん坊が、可哀想なことに、何度も手術を受ける運命にあったのです。
木村先生の紹介で、地元山口県の国立岩國病院の小児外科により、胆管を何とか開く手術が行われました。
1度では上手く行かず、2度目の手術も失敗でした。
岩國病院の担当医から、木村先生(最初に裕弥ちゃんを診察した開業医の先生)の元に、手紙が来て、
「この子の予後はホープレス(望みがない)」とのことでした。残酷な宣告です。
それでも、裕弥ちゃんの家族は諦めませんでした。
木村先生に、何とか手段は無いか、と聞きました。先生は肝移植以外に道はない。といいました。
日本では、移植手術はタブーとされていました。
1968年札幌医大で行われた日本初の心臓移植手術の失敗が、その背景にありますが、その説明は省きます。
日本木村先生はオーストラリアの病院に問い合わせましたが、オーストラリアの病院は
「生体肝移植は難しくて無理だ。」という、つれない返事をよこしてきました。
しかし、木村先生も諦めませんでした。
◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。
木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。
木村先生は内科、永末先生は外科ですが、肝臓を専門とすることで共通していました。
木村先生がエコーで肝臓ガンを診断し、永末先生が切除可能な肝ガンの手術を6年間で200例も手がけていました。
木村先生は「生体肝移植を頼むなら、(島根医大に移った)永末君しかいない」と思いました。
永末先生は、最初あまり乗り気ではなく、オーストラリアの病院で手術を受けることを進めました。
これは、前述の通り当時の日本の医学界で「移植」という言葉はタブーだったのです。
このタブーを破った医師は、医師生命を絶たれる危険がありました。ですから、最初に永末先生が積極的ではなかったことも、
無理からぬことだったと言って良いでしょう。
ところが、木村先生は諦めませんでした。講演のため、広島に来た永末先生に会い、
とにかく裕弥ちゃんの診察だけでもしてくれ、と、頼みました。永末先生は引き受けました。
永末医師が初めて診る裕弥ちゃんは、黄疸が強く出ていて、溜まった腹水でおなかがパンパンに膨れて、静脈が浮き出ていました。
既に食道静脈瘤が出来ている可能性があり、これでは、いつ吐血してもおかしくない。
吐血しなくてもあと1ヶ月ほどの命、と永末先生は思いました。まだ、生後一年経っていない赤ん坊が肝硬変です。残酷な現実でした。
裕弥ちゃんの体力が移植手術に耐えられるか、五分五分だと考えました。
◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。
永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、
- 正確なことは精密検査をしないと分からないが、移植手術は出来そうなこと。
- 但し、島根医大の永末医師のグループでは生体肝移植の経験がないので、上手くいくかどうか保証できないこと。
- 手術まで持ち込めても、裕弥ちゃんの全身状態があまりにも悪いので、手術に持ちこたえられずに亡くなる可能性も高いこと、
という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。
永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。
このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。
そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。
「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」
15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。
「お願いします」
その言葉に永末先生の気持ちが動きました。
「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。
ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。
◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。
永末先生の気持ちは固まりました。
当時永末先生は助教授でしたから、第二外科の部長中村教授の了解も取り付けました。
自分の研究室に戻った永末先生は、肝臓グループの医師たちに、裕弥ちゃんの生体肝移植を引き受けることにした、と言いました。
医師達は全員無言になりました。
「日本で初めての生体肝移植」であることに加え、裕弥ちゃんの症状が悪すぎる、と専門医たちは誰もが思ったのです。
スタッフが躊躇っているのを見て、永末先生は、言いました。
「赤ちゃんは死にかけている。責任は全て私が取る。目の前の赤ちゃんを救えないような研究なら意味は無い。もしこの移植を拒むなら、明日から移植の研究など止めてしまおう
第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。
◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。
手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。
中村先生は、心配していました。
「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。
しかし、君はこの手術で全てを失うかも知れない。僕はそれがいちばん心配だ。本当に君はそうなってもかまわないのか」
その都度、永末先生は答えました。
「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」
この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。
しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。
後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。
「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」
淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。
これほど立派な医師を見たことがありません。
裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。
そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。
家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、
チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。
母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。
島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。
それはそれで、良いことです。
しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。
島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。
島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。
永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。
永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。
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コメント
あつしさま、こんばんは。コメントをありがとうございます。
あつし様のご親戚のお嬢さんが、胆道閉鎖症だったとは・・・・・。
生体肝移植を受けられて、高校生になられたのですか。ご本人、ご両親、あつし様は、さぞお喜びのことでしょう。
本当に良かったですね。
仰るとおり、永末先生が、医師生命を賭けてまで、日本初の生体肝移植を手がけて下さったおかげで、
その後、多くの先天性胆道閉鎖症のお子さんが、若い命を落とさずに済むようになりました。
裕弥ちゃんの死は残念でなりませんが、彼も天国で喜んでくれていることでしょう。
私は、何回でも、何十回でも、このエピソードを繰り返し、書くつもりでおります。
お読み頂き、ありがとうございました。
投稿: JIRO | 2008.11.14 21:59
selaさん、コメントをありがとうございます。
私も、毎年同じ話を書いているのですけれど、毎回書きながら胸が熱くなります。
今回は書きませんでしたが、永末先生の立派なことは他にもあります。
それは、術前・術中、術後の経過を全て公表したこと。失敗も隠さなかったことです。
「こういう問題が発生したが、これは私のミスである」と記者会見で仰るのです。
「臓器移植に対する世論の猜疑心を払拭するためには、全てをオープンにすることが必要だ」との考えから、
その通りになさったのです。
神様の様な先生です。
全ての、医療従事者を志す若者にこのエピソードを知って貰いたいと思います。
来年も必ず書きます。
投稿: JIRO | 2008.11.14 21:48
おはようございます。
生体肝移植の末永先生のお話、昨年も読ませていただき涙しました。そして今年もまた涙しました。というのも、私の親戚に先天性胆道閉鎖症で生まれた女の子がいて、小さな体に何度もメスを入れることになりました。が、結局上手くいかず、最後はその子のお父さんからの生体肝移植になりました。そしてその子は今、高校生です。末永先生と島根医大のチームの方々が、生体肝移植の道を開いて下さったおかげです。だから先生とそのチームの方々のお話を読むたびに、涙してしまいます。今年もまた末永先生のお話を採り上げて下さって、嬉しかったです。ありがとうございます。
投稿: あつし | 2008.11.14 10:00
感激して涙が出てきます。
御紹介いただきありがとうございました。おそらく去年も拝読してはいると思うのですが、毎年でも読みたい話です。
昨日やっと謝罪してましたが、国務大臣が『医者のモラルが』云々する恐ろしい事態ですから、これを読め!といいたい気分です。
(きっとそのうち『教員のモラルが』と言い出すでしょう....いやもう言ってるか。)
悲しいかなそういう人も居るでしょうが、大部分が汗水たらして必死で最上のことを心掛けているのに。
医療従事者が誇りと自負を持って邁進できますように。
投稿: sela | 2008.11.14 07:20