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2010.10.28

「<文化勲章>安藤忠雄氏ら7人 文化功労者には17人」←いい加減、安永徹さん、土屋邦雄さんに授与しなさい。日本政府のボケ!

◆<文化勲章>安藤忠雄氏ら7人 文化功労者には17人(毎日新聞 10月26日(火)11時41分配信)

政府は26日、10年度の文化勲章受章者7人と文化功労者17人を決定した。

文化勲章は

▽原子核物理学・学術振興の有馬朗人氏(80)

▽建築の安藤忠雄氏(69)

▽有機合成化学の鈴木章氏(80)

▽演劇の蜷川幸雄氏(75)

▽有機合成化学の根岸英一氏(75)

▽服飾デザインの三宅一生氏(72)

▽日本中世史の脇田晴子氏(76)--に贈られる。

文化功労者はスポーツの王貞治氏(70)ら17人に決まった。

ノーベル化学賞に決まった鈴木氏と根岸氏は文化功労者にも選ばれた。


◆コメント:今回の文化勲章受賞者、文化功労者を否定するのではないが。

今回、栄誉に輝いた方々に因縁を付けるつもりは毛頭ないが、

文化勲章・文化功労者を決めている「日本政府」の担当者に言いたい。


最近では大分見劣りしてきたが、カラヤンが音楽監督だった頃の、全盛期のベルリンフィルに

最初の日本人メンバーとして入団し、定年まで40年間弾き続けたヴィオラの土屋邦雄さんや、

この、世界一のオーケストラで四半世紀、第一コンサートマスターを務めた安永徹さんは、

勲章が欲しくて音楽を続けた訳ではないだろうが、国の誉れの人なのだ。

安永さんは、ドイツ政府から勲章を授与されている。日本政府はその事実すらしらないのではないか。麻生総理の頃だ。
2009年02月27日(金) 「ベルリン・フィルの安永徹さん、独政府が勲章授与」←安永さんは勲章が欲しくて音楽家になったのではない。しかし、私は嬉しい。ココログ

安永さんが、コンサートマスターの試用期間を終えて、正式に就任したのは1985年だから、

今の若い人には、あの興奮は分からないだろうが、私らは、日本人がベルリン・フィルのコンサートマスターになった、

という快挙に、文字通り跳び上がるほど喜んだものである。当の安永さんはあくまで謙虚な方で、
「自分がコンサートマスターになったことよりも、日本人をコンサートマスターに選んだ、ベルリン・フィルがすごいと思う」

と仰有る。しかし、何と言っても日本人じゃなくてもいいのに、日本人でコンサートマスターになった安永さんがすごいのである。

かつて、一度載せたが、安永さんの対談集、「音楽って何だろう」で、作曲家の故・石井真木氏に、

コンサートマスター就任までにいきさつを詳しく話しているので、

もう一度その部分を抜萃引用する(32ページから40ページ2行目まで)。

私が本を見てキーボードから一文字ずつ入力したものである。

「ベルリン・フィルの試験」

石井 ところで安永さん、どうしてベルリン・フィルに入ろうと思ったんですか?

安永 土屋邦雄さんが、いろいろよくしてくださいましてね。ファースト・ヴァイオリンかセカンド・ヴァイオリンの席が空くけれども、もしよかったら入って勉強してみないかとおっしゃて下さったんです。ベルリンフィルは、日本で考えられているようなオーケストラとちょっと違って、中にいて勉強になることがたくさんあるから、骨を埋めるとか大仰なことを考えずに、修業するつもりで何年間か入ってみてもいいんじゃないかと。そこでシュバルベ先生(引用者注:安永さんがベルリンの音大で習ったヴァイオリンの先生。カラヤン全盛時代に長くベルリン・フィルのコンサートマスターを務めた人)に相談したら、ああ、それはいいことだとおっしゃったので、試験を受ける気持になったんです。 77年2月でしたかね。募集があったので応募したんです。11人来ていました。その時の課題曲はモーツァルト。ドイツのオーケストラは、ヴァイオリンの場合、モーツァルトのコンチェルトの三番か四番か五番、この3つのうちのどれかを弾くことが多いんです。コンチェルトといってもピアノ伴奏で弾くんですが。それで11人弾き終わって控え室で待っていたら、二人を除いて全員帰ってよろしいといわれたんです。ぼくはその二人の中に残ったんですね。11人弾いたときにはカラヤンはいませんでしたが、残り二人になったときにやってきました。

石井 その二人というのは誰が選んだんですか。

安永 オーケストラのメンバーです。

石井 団員が全員、客席に座って聞くわけですか。

安永 そうです。ぼくのときには、いまのベルリン放送交響楽団のホール、SFB(自由ベルリン放送)ですか、あそこのホールでした。

石井 投票?

安永 挙手でいいんです。みんなでお互いに意見を言い合って、最後に、じゃあどうする、あいつをいれようか、ということになるわけ。いれるということは試用期間を始める、ということですね。

石井 プローベ・ツァイトってやつ。

安永 ええ。ぼくの場合は、77年の3月1日からすぐプローベ・ツァイトが始まって、終わったのが翌年の春ですから、1年ちょっとですね。試用とはいっても正式団員ですから当然給料は貰えます。ふつう1年契約で、その試用期間が終わると同時に、65歳までの定年までの契約になるわけです。ぼくの場合は、そのあとコンサート・マスターの試験を受けましたが。

石井 コンサート・マスターの試験を受けても65歳までの契約というのは生きてるわけですか。

安永 ええ。コンサート・マスターの試験が不首尾でも、ぼくさえOKなら団員に戻って65歳までの契約が継続されるわけです。ドイツ人は、コンサート・マスターの試験に落ちてもそのまま団員で残れるんだから、受けなきゃ損だという考え方なんですね。落ちても、あ、うまくいかなかったか、まあ、いいじゃないかと。あまり面子などにはこだわらない。

石井 ベルリン・フィルにヴァイオリン奏者として入るときはモーツァルトを弾いたということですが、コンサート・マスターになるときには特別な試験があるんですか?

安永 やはりモーツァルトを弾くんですよ。それと自分の好きなコンチェルトをひとつ。さらに、R.シュトラウスの「英雄の生涯」とか「ツァラトゥストラはかく語りき」とかいう、コンサート・マスターが実際にオーケストラの中でソロを弾かなければならない曲目があるでしょう、そういう課題が出るんです。その中のどれを弾くかというのはカラヤンが自分で指定するんです。これを弾けって。そりゃもういやなもんです。

石井 しかし、コンサート・マスターというのはヴァイオリンがうまく弾けりゃそれでいいというもんじゃないでしょう。性格とか気心とかも・・・。

安永 ええ。でもそれまでに7、8年団員としてやってきていますから、人間的なことは--。

石井 試されて、もう分かってる。

安永 あとは結局、コンサート・マスターとしての具体的な能力だけですね。コンサート・マスターにも試用期間というのがあって、ぼくの場合、83年11月から85年5月末までだったんですが、その間は、それこそまな板の上の鯉です。

石井 今度、まな板の上の鯉を川に戻してもらった、つまり第一コンサートマスターになったんですが、その時の試験というのもあるんでしょう。

安永 それまでの毎日が試験です。

石井 でも、何か特別にあるんでしょう。

安永 いいえ、特別な試験というのは何も。オーケストラ会議ってえらいものがありますが。これはね。実はオーディションに通ったときから、この会議のためにヴァイオリン・セクションだけでなく全員が見てるわけですよ。あれやこれやと。たとえば、コンサート・マスターとしての統率力はどうか。自分の言いたいことをきちんと表現できる語学力があるかどうか。指揮者の言うことをただヘイヘイ鵜呑みにするのではなく、指揮者が不適当なことを言ったときにはちゃんと対応できるかどうか。

  84年8月のザルツブルク音楽祭にカラヤンが出演することになったとき、「英雄の生涯のソロ・ヴァイオリンをぼくがやることになったんです。だれにソロをやらせるかというのは音楽監督としてのカラヤンの権限なんです。ところがそれから数ヶ月したら、御存知のように、オーケストラとカラヤンがまずくなりまして(引用者注:この頃、ザビーネ・マイヤーというクラリネット奏者をベルリンフィルに入団させるか否かで、カラヤンは入れるといったが、オーケストラは反対で、両者の間に確執が生じた。「ザビーネ・マイヤー事件」として有名)、音楽祭がお流れになったんです。結局その時は、そういうわけでソロを弾くのは実現しなかったんですが、そのあと、オーケストラとカラヤンのよりが戻ったときに、またオーケストラが安永のソロを聴かせろということになったんです。それじゃ85年2月のベルリンでの「英雄の生涯」のビデオ撮りの演奏会で安永をコンサート・マスターとして使おうと。ところが今度はぼくが病気になってしまった。医者の診断では「ワレンベルク症候群」(軽い脳血栓の一種)ではないかということだったんですが、首が痛み、肩が凝る。体が左へばかり傾く、唾が飲み込めない。あわてて入院したんですが、そのために演奏会が不可能になってしまった。で、治ってからカラヤンのところへ行きましたが、まあ焦るな、焦ったってまたぶり返すだけだからゆっくり養生した方がいいと。そういうわけでまたまた実現しなかったんだけど、カラヤンとしては自分が棒を振って一度ソロの入った大曲をやらせないと自分で納得できなかったんですね。

石井 カラヤンは完璧主義者だから・・・。

安永 ところがオーケストラにしてみれば、どっちか白黒を決めたかったんですね。もう1年もたつし、十分聴いたから、と。そこで、プフィングステン、つまり聖霊降臨祭の時にカラヤンが一回だけ棒を振ることになったんですが、その時試してみようということになったんです。そのときは小澤征爾、ジェームズ・レヴァイン、カラヤンの三人が一回ずつ演奏会をやったんですが、カラヤンのプログラムのときに安永を使ってみようということになったわけです。

石井 まな板の上にもう一度載せられた。

安永 その演奏会の1日前に練習がはじまったんですが、練習の前にカラヤンからザルツブルクのホールの自分の部屋に来るように連絡がありました。自分の部屋に来いというのは、自分の前で一人で弾いてみろということだろうと思ったんで、楽器をもってカラヤンの部屋に行きました。「やあ。こんちは。ところで君はこの曲を知ってるかい」って言うから、「それは『ツァラトゥストラはかく語りき』ですね」「よく知ってるか」「はい、よく知ってます」。そういうときに「いえ」なんて言っちゃいけないんです。カラヤンは、「ああ、知ってる?OK,OK」。そして、「この曲はシュトラウスの中でも最もむずかしい曲だ。よっぽどよく理解してないとうまくいかない」「そうでしょうね」「ところで楽譜持ってきたかい」「はい」「ちょっと弾いてごらん」。カラヤンは僕が持ってきたパート譜を取りあげて「ああ、ここ、ここを弾いて見なさい」と歌いながら棒を振るんです。ぼくは楽譜を半分むこうにとられてうんだけど、「よく知ってます」と言った手前、見せて下さいとは言えないんですからね。(笑)カラヤンは暗譜をモットーにしてますから、こっちも暗譜してる分は少しでも示さないと損する。10分ちょっとでテストは終わって「ああ、よろしい、よろしい、じゃあとでね」。6時からの練習が始まったときは、カラヤン、とてもご機嫌で。翌日の演奏会もまあまあ。カラヤンが信頼してくれた初めての演奏会という気がしました。1年半かかってようやく信頼してもらえたかという感じ。

石井 大変でしたね。

安永 でも、それだけじゃない。それはたったの一票。こんどは楽団員が・・・。

石井 120票もあるわけだから。

安永 ええ、大変でした・・・・。つまりね。ぼくのヴァイオリン演奏の技術については反対しない。ただこのポストは並の人間じゃできる仕事じゃないとみんな考えているわけです。超人的な要素が必要とされる。極端なことを言えば、ヨーロッパ人であればヨーロッパの伝統を血の中に持っているわけだけど、外国人の場合は血の中にドイツ音楽のリズムというものがない。ドイツを代表するオーケストラのリーダーになるわけだから、そのへんが問題になるんです。ましてや世界中から指揮者がたくさんやって来るなかで、いままでこのオーケストラが刻んできた歴史を継続していけるだけの勇気と決断力があるかどうか、この点がメンバーの大議論になるわけです。

石井 それは勿論欠席裁判・・・・。

安永 欠席裁判! まさにその通りですね。その会議の数日前に親しいオーケストラのメンバーがぼくのところにやってきて言うんです。「これは、お前さんのヴァイオリンがどうのとかお前さんの人間がどうのとか、そういうことじゃない。日本とベルリン・フィルとの友好関係にもかかわる問題だ。もしお前さんが不合格になった場合、その関係もまずくなるかもしれないし、第一、お前さんが一番ダメージを受けるだろう。病気になったことにして辞退すればお前さんもダメージを受けないし、オーケストラも苛酷な裁判をせずにすむ、どうだ」。

石井 厳しいね。

安永 それはほんとに良心的な意味なんですがね。しかし、ぼくは考えた。「自分はこれまで1年半ベストを尽くしてきた。指揮者はカラヤンで、オーケストラはベルリン・フィル、お客様はザルツブルクの耳の肥えた人たちだ。曲目はカラヤンが世に出たときに演奏した『ツァラトゥストラ』。相手にとって不足はない。

そして演奏をしたのが5月27日。会議は29日だったんですが、どうも1時間半ぐらい会議が行われたんですね。もういろんな意見が出たそうです。しかし、これは欠席裁判なんだからぼくが知っちゃいけないことなんですね。だからみんな説明してくれませんでした。

石井 もちろん合格。

安永 はい。実はその日、僕に賛成の人が4、5人欠席していたんです。だからファースト・ヴァイオリンのぼくの味方の人はちょっと日を遅らせようと言ったんです。欠席者はいちおう意見だけは手紙で言うことは出来るけれど、投票は出来ないんです。出席者の3分の2以上の票がないと合格出来ませんから、4、5人でも大きいんですね。投票は無記名ですから、面と向かってはいいことを言っても、書くときは何でも書けるわけです。だからそういう状況の中で3分の2をはるかに超える人が信任してくれたということは、これはもう非常な責任を感じました。

石井 嬉しかったでしょう。

安永 ううん、通ったという電話をもらった時に、「そうか」だけでおしまいだったらしい。あとであの時はどうしたんだって言われましたから。素直に喜べなかったんですね。事の重大さにわなわなとしてしまって。

お読みになって分かると思うが、コンサート・マスターのオーディションを合格してもそれからの(安永さんの場合)1年半は毎回のコンサートが、

謂わば「試験」だったわけである。その後、投票があって、侃々諤々の議論の後に、正式に「合格」となる。その1年半のプレッシャーは察するにあまりあるが、

この対談が行われたのは、本の記録によると、1985年8月9日である。丁度、正式にコンサートマスターに就任した直後の対談だから、

細部まで安永さんもはっきり記憶していて、カラヤンにいきなり呼ばれて弾かされたり、会議の前に、「もし大変だから、辞退したらどうだ」と

本気で心配してくれた、ベルリン・フィルの同僚の話など、日本語で書かれた本で、安永さんのベルリン・フィルコンサート・マスター就任までの内幕が

ここまで生々しく記録されている本は他に無い、と思う。安永さん自身、正式にコンマスと決まったときは、あまりの事の大きさにわなわなとしてしまった、

というぐらいの重責を、四半世紀も務めたのが、安永さんであり、敬意を表するなと言われても無理で、

他の誰が何と云おうと(誰かが何かを言っている訳ではないが)私は安永徹さんを尊敬している。

吉田都さんは、既に紫綬褒章を受勲しているし、今年の文化功労者には指揮者の大野和士の名前があり、

それはそれで、大変結構なことで、否定する気など毛頭ないけれども、不公平だ、と言っているのである。


オーケストラのメンバーは大したことない、とでも思っているのかね?

駆け出しの指揮者などより、ベテランコンサートマスターの方が、大抵のオーケストラのレパートリーは、良く知っているのですよ?

それぐらいじゃないと務まらない。物凄いことですよ。先日、毎コンの話で、

コンクールというのは、「その日、その時、その場で」誰が一番上手いか、という、謂わば最大瞬間風速だ

と書いたが、コンサートマスターを四半世紀続けるということは、最大瞬間風速を25年間続けたようなものだ。

ホントに日本政府、教養ねーなー。いい加減分かれよ。

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