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2010.11.13

21年前(1989年)の11月13日、日本で初めての生体肝移植が行われました。

◆また、11月13日がやってきました。

21年前、1989(平成元)年11月13日(月)、旧・島根医科大学第二外科が

日本で初めて、生体部分肝移植手術を行いました。

私は毎年、このことを書き続けています。

内容は同じですが、毎年弊ブログの新しい読者がおられるし、この一年の間に、

「生体肝移植」を知った方、或いは、自らがドナー(臓器提供者)、レシピエント(移植を受ける側)に

なった方もおられるでしょう。


初めての生体部分肝移植の後、21年の間に日本では2,000例以上の同手術が行われたそうです。

Googleで「生体肝移植」を検索すると、約 87,500 件の検索結果、と表示されます。

専門家のサイト、自分が当事者となった方の体験談、様々です。

生体肝移植には、ドナー、レシピエント共に合併症の危険がある、とか、健康な人の肝臓の一部を

切除する、ということに関する倫理的な問題点を論じたもの、様々です。

専門家の議論や、患者の体験談など、勿論多いに書かれてよいのです。


しかし、それらは全て「初めて、生体肝移植手術を行った島根医大があったからこそ」分かった事です。

そして、少し気になったことがあります。

それは、全国の大学の医学部がWebサイト上で肝移植について、素人向けに説明している場合、

大抵、「肝移植の歴史」という項目があり、その中で、

1989年11月、日本初の生体部分肝移植が行われた。

としか書いていないことです。「肝移植の歴史概観」だから、「誰が」「どのように」は不要だ、ということなのでしょう。

患者への概略説明だから、いちいち、情緒的記載が必要ない、というのはわからないでもないですが、
島根医科大学(当時)第二外科により、

ぐらいは書いても良いでしょう。

初めての生体部分肝移植を行う決断がどれほど重かったか。術後どれほど壮烈な医師の努力と奮闘があったか。

それらに対する「畏敬の念」が感じられず、私は、不満です。


だから、私は毎年、その点を詳細に書きます(再録ですが)。


◆そもそもの始まり。

移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。

山口県玖珂郡和木町、岩国市のすぐ北、広島との県境で開業していた木村直躬医師に、

裕弥ちゃんのおばあさんが、そのことを告げました。1988(昭和63)年12月のことです。

木村先生はエコー(超音波)で、ただちに、杉本裕弥ちゃんが、先天性胆道閉鎖症という病気である、と診断しました。

先天性胆道閉鎖症とは、生まれつき胆汁が流れ出る道がふさがっていて、胆汁が肝臓へ流れていかないので、

黄疸が段々強くなり、しまいには、肝硬変で死に至る病です。


◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。

この世に生を受けて間もない赤ん坊が、可哀想なことに、何度も手術を受ける運命にあったのです。

木村先生の紹介で、地元山口県の国立岩國病院の小児外科により、胆管を何とか開く手術が行われました。

1度では上手く行かず、2度目の手術も失敗でした。

岩國病院の担当医から、木村先生(最初に裕弥ちゃんを診察した開業医の先生)の元に、手紙が来て、

「この子の予後はホープレス(望みがない)」とのことでした。残酷な宣告です。

それでも、裕弥ちゃんの家族は諦めませんでした。

木村先生に、何とか手段は無いか、と聞きました。先生は肝移植以外に道はない。といいました。

日本では、移植手術はタブーとされていました。

1968年札幌医大で行われた日本初の心臓移植手術の失敗が、その背景にありますが、その説明は省きます。

日本木村先生はオーストラリアの病院に問い合わせましたが、オーストラリアの病院は

「生体肝移植は難しくて無理だ。」という、つれない返事をよこしてきました。

しかし、木村先生も諦めませんでした。


◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。

木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。

木村先生は内科、永末先生は外科ですが、肝臓を専門とすることで共通していました。

木村先生がエコーで肝臓ガンを診断し、永末先生が切除可能な肝ガンの手術を6年間で200例も手がけていました。

木村先生は「生体肝移植を頼むなら、(島根医大に移った)永末君しかいない」と思いました。

永末先生は、最初あまり乗り気ではなく、オーストラリアの病院で手術を受けることを進めました。

これは、前述の通り当時の日本の医学界で「移植」という言葉はタブーだったのです。

このタブーを破った医師は、医師生命を絶たれる危険がありました。ですから、最初に永末先生が積極的ではなかったことも、

無理からぬことだったと言って良いでしょう。

ところが、木村先生は諦めませんでした。講演のため、広島に来た永末先生に会い、

とにかく裕弥ちゃんの診察だけでもしてくれ、と、頼みました。永末先生は引き受けました。

永末医師が初めて診る裕弥ちゃんは、黄疸が強く出ていて、溜まった腹水でおなかがパンパンに膨れて、静脈が浮き出ていました。

既に食道静脈瘤が出来ている可能性があり、これでは、いつ吐血してもおかしくない。

吐血しなくてもあと1ヶ月ほどの命、と永末先生は思いました。まだ、生後一年経っていない赤ん坊が肝硬変です。残酷な現実でした。

裕弥ちゃんの体力が移植手術に耐えられるか、五分五分だと考えました。


◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。

永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、


  • 正確なことは精密検査をしないと分からないが、移植手術は出来そうなこと。

  • 但し、島根医大の永末医師のグループでは生体肝移植の経験がないので、上手くいくかどうか保証できないこと。

  • 手術まで持ち込めても、裕弥ちゃんの全身状態があまりにも悪いので、手術に持ちこたえられずに亡くなる可能性も高いこと、


という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。

永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。
このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。

そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。
「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」

15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。
「お願いします」

その言葉に永末先生の気持ちが動きました。

「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。

ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。


◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。

永末先生の気持ちは固まりました。

当時永末先生は助教授でしたから、第二外科の部長中村教授の了解も取り付けました。

自分の研究室に戻った永末先生は、肝臓グループの医師たちに、裕弥ちゃんの生体肝移植を引き受けることにした、と言いました。

医師達は全員無言になりました。

「日本で初めての生体肝移植」であることに加え、裕弥ちゃんの症状が悪すぎる、と専門医たちは誰もが思ったのです。

スタッフが躊躇っているのを見て、永末先生は、言いました。

「赤ちゃんは死にかけている。家族は結果は問わないからやってくれという。責任は全て私が取る。目の前の赤ちゃんを救えないような研究なら意味は無い。もしこの移植を拒むなら、明日から移植の研究など止めてしまおう

第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。


◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。

手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。

中村先生は、心配していました。

「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。

しかし、君はこの手術で全てを失うかも知れない。僕はそれがいちばん心配だ。本当に君はそうなってもかまわないのか」

その都度、永末先生は答えました。
「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」

この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。

しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。

後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。

「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」

淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。

これほど立派な医師を見たことがありません。

裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。

そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。

家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、

チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。

母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。

島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。

それはそれで、良いことです。

しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。

島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。

島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。

永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。

永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。


◆【参考】関連記事・サイト・書籍などへのリンク

読売新聞地方版が2002年に掲載した記事がまだ残っています。

読売新聞が見つめた 島根50年 (4)1980年代 生体肝移植

永末先生はまだまだ現役です。現在は福岡の私立病院の院長でいらっしゃいます。
ふくみつ病院

NHK、「プロジェクトX」で杉本裕弥ちゃんの生体肝移植がとりあげられましたが、電子書籍になっています。
プロジェクトX 挑戦者たち 復活への舞台裏 裕弥ちゃん1歳 輝け命

他にも永末先生の論文などヒットしますが、これは専門家で無ければ読んでも分からないでしょう。

少なくとも、決断―生体肝移植の軌跡は読んで頂きたいと思います。

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コメント

あつし様、毎年、この記事にコメントを下さり、ありがとうございます。

ご親戚のお嬢さんのお話、一昨年、お書き頂きました。その時には高校生だったお嬢さんが

再来年には成人式ですか。 永末先生があつし様のこのコメントをお読みになったら、さぞや喜ばれることでしょう。

控え目な方で、現在の勤務先のプロフィールには移植のことは書いてありません。

ふくみつ病院 〒813-0016 福岡市東区香椎浜4丁目10-1 の院長をなさっているそうですので、

http://www.fukumitsu-hospital.jp/hospital/

あいにくメールは受け付けていないようですが、ハガキ一枚でも

届いたら、先生が嬉しくない筈はありません。

差し出がましい事を申し上げて失礼ですが。

この話は来年も再来年も書き続けるつもりです。

投稿: JIRO | 2010.11.17 23:01

生体肝移植の永末先生のお話、今年も読ませていただきました。以前にもコメントさせていただいたのですが、私の親戚の女の子も先天性胆道閉鎖症で赤ちゃんの時から小さい体に何度もメスを入れ、結果、生体肝移植の手術を受けています。その子も再来年には成人式を迎えるとのことで、とても元気なお嬢さんになっています。だから永末先生とそのチームの方々のお話を読むたびに涙してしまいますし、永末先生、ありがとうございますと感謝の気持ちでいっぱいになります。
そしてJIRO様、今年もまた永末先生のお話を採り上げて下さって、ありがとうございます。本当に嬉しく思っております。

投稿: あつし | 2010.11.14 21:30

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