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2015年11月

2015.11.17

「高村氏 テロ対策で「共謀罪」新設など法整備を」←これこそ猛反対しなければいけません。

◆記事:高村氏 テロ対策で「共謀罪」新設など法整備を(NHK 11月17日 13時48分)

自民党の高村副総裁は党の役員連絡会で、フランス・パリで起きた同時テロ事件を受け、

テロなどの計画の謀議に加わった場合に処罰の対象となる

「共謀罪」を新設するなどの法整備を急ぐ必要があるという認識を示しました。

この中で自民党の高村副総裁は、「トルコで開かれたG20サミットでテロの撲滅に向けて

連帯していく声明が出されたことはよかった。

わが国としては、当面、人道支援や周辺国への支援をしっかりとしていく」と述べました。

そのうえで、高村氏は「テロの資金源対策を含む国際条約ができているにもかかわらず、

日本は、国内法が整備されていないことから批准できておらず、そうしたこともしっかりやっていかなければいけない」と述べ、

テロなどの計画の謀議に加わった場合に処罰の対象となる

「共謀罪」を新設するなどの法整備を急ぐ必要があるという認識を示しました。

また、谷垣幹事長は記者会見で「来年、主要国首脳会議『伊勢志摩サミット』が開かれるので、

テロ対策には意を用いていかなければならず、そうした法整備は前から必要だと思っている」と述べました。


◆コメント:とんでもない悪法で、過去何度も廃案になっています。これこそ猛反対するべきです。

安保法案は集団的自衛権の行使を認める飛んでもない憲法違反ですが、

以前から、繰り返し書いているように、安倍晋三という人は、総理になる前から

自分の政治家としての最終的な目標は憲法を変えることだといい、

2012年衆院選、2013年参院選、2014年衆院選全てにおいて自民党の「公約」に含まれていました。

その自民党を3回の選挙で大勝させておいて、いざ法案審議可決になってから、

憲法を守れ。安保法案反対デモ。

などとマヌケなことをいうから私は、今更何を言ってんだよ。選挙のときに

騒がなければ遅いんだよ。と思いました。


しかし。

共謀罪は違います。3回の選挙で「共謀罪」は公約に含まれていません。

そして過去10年何度も法案審議しかけて、廃案になっています。あまりにも悪法だからです。


共謀罪とは、
「犯罪の相談(冗談でも)をしただけで、犯罪と見なす」

と言うことです。

元来は、国連が2000年に採択した、「越境組織犯罪防止条約」の批准の為に必要とされる立法だ、と法務省は言います。

つまり、マフィアとか、アルカイーダとか国境を越えて縦横無尽活動する「組織的犯罪集団」による犯罪を未然に防ぐために、

怪しい奴は見張っておけるような法律(というか、罪名ですね)を作る、という大義名分なのです。


しかし、恐ろしいことに日本の法務省が過去に挙げようとした「共謀罪法案」は、

「国際的・組織的」犯罪ではなくても、
「懲役4年以上の刑に相当する犯罪を、団体で遂行することを共謀した者」

に適用範囲が広がっているのです。

懲役4年以上の刑が科せられる構成要件は、500件を遙かに超えます。

専門家の説明は次のようになっています。
新たに導入されようとしている「共謀罪」は、長期四年以上の刑期を定めるあらゆる犯罪(合計では500を超える)について、

「団体性」があれば(「二人以上で」と読め!)、犯罪の合意だけで共謀罪が成立するというものだ。 

犯罪の「合意」とは二人以上の者が犯罪を行なうことを意思一致することだけである。

それ以上の行為、たとえば「誰かに電話をかける」「凶器を買う」といった犯罪の準備行為に取りかかることは処罰の要件となっていない。



共謀罪ができるとどんな事態が起こるのだろうか。Aと知り合いのBがCをやっつけようと合意したとする。AとBにはこの段階で傷害の共謀罪が成立する。

Bがこの会話の録音テープを持って警察に出頭すればBは刑を減免され、Aは、何の準備も始めていなくても逮捕され、

三年以下の懲役刑に処せられることとなる。

犯罪には既遂のみが罰せられるもの(窃盗とか)と未遂でも罰せられる「殺人」などがありますが、

共謀罪が導入されると、無茶苦茶で、未遂ですら罰せられない行為を考えて、合意しただけで、準備に取りかからなくても、

2人以上が「合意」さえすれば、それ自体が犯罪だ、というのです。


そして、非常に嫌らしいのは、人をおとしめることにつかえるのです。

自分に犯罪をやるつもりがなくても、気にくわない誰かにわざと刑罰が懲役4年以上になる行為(著作権法違反ですらそうなります)

をもちかけ。相手が「おう、やろう」と言ったらそれを録音し、警察に自首し、密告すれば、自分は罪を免れ、

自分の気に入らない、この合意の相手方だけが罰せられる。殆ど治安維持法。旧ソ連とか今の北朝鮮を笑えません。

ものすごく陰湿な社会になります。


安保法案反対デモなんて騒いでいた人。

今日は静かです。共謀罪の意味が分かっていないのだとおもいます。

分からなかったら調べて下さい。


僭越ながら、私もこの日記やブログで、過去10年間に少なくとも28回、共謀罪について書いています。

リンク先の記事を読んで下さい。

本当に反対するのはこういう法案です。公約に入っていなかったのにどさくさ紛れ。

今回、どういう内容で法案を提出してくるか。そもそも法案を審議することになるのかどうか。

まだ、わかりませんが、「テロ防止のため」だけに使うとは安倍政権のファッショ性に鑑み、

あり得ないとおもいます。これに乗じて、より一層全体主義的、専制的な政治を可能ならしめようと

するでしょう。

もう一度、繰り返します。

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2015.11.16

「GDP、年0.8%減=2期連続マイナス―投資低迷、中国減速懸念で・7~9月期」←GDPが2四半期連続マイナスは「景気後退」です。

◆記事:GDP、年0.8%減=2期連続マイナス―投資低迷、中国減速懸念で・7~9月期(時事通信 11月16日(月)8時58分配信)

内閣府が16日発表した2015年7~9月期の国内総生産(GDP、季節調整済み)速報値は、物価変動の影響を除いた

実質で前期比0.2%減、年率換算で0.8%減となった。2四半期連続のマイナス成長

設備投資が振るわず、個人消費も回復が鈍い。中国経済の減速懸念が強まる中、

日本経済を取り巻く環境は厳しく、景気の停滞感を確認する内容となった。


◆コメント:「景気後退」(リセッッション)局面入りです。安倍政権の経済政策は失敗です。

アベノミクスなんてものは何ら新しいことをしているわけではないので、嫌いな言葉ですが、

特徴としては、本来、その独立性を尊重しなければいけない、日本の中央銀行、日銀に「命じて」、

金融政策で物価を押し上げようとするばかりなのです。

市場に資金をつぎ込んで無理矢理物価が上がるようにしても、

物価だけが上がる状態「デフレからの脱却」自体を目的にしたのが間違いです。


デフレーションからの脱却つまり物価が上昇するのは、個人消費が増えて、モノが売れて、

生産が追いつかず、需要と供給の関係で、需要の方が多くなり、物価が上がる、という

所謂「良いインフレーション」(需要が増加した結果なのでディマンド・プル・インフレとも言います)がおこり、

それは物価が上がるのですから「結果として、デフレから脱却する」というのが本来の形です。


安倍政権は中央銀行(日銀)の金融政策だけで、何とかなるとおもっていたようです。


しかし、実質GDPの前期比マイナスが2四半期連続することは、伝統的な経済学では

景気後退(リセッション=Recession)

といいます。

英国の経済専門紙、フィナンシャルタイムズははっきりと、
Japan falls back into recession(日本、景気後退局面に)

と書いていますが、日本のメディアはどこもそれをはっきり言いません。

安倍政権は最初は株価が「アベノミクス」(とは何か皆分からないのですが)期待で上がって

それが評価されたのですから、今度は逆に、景気の浮揚に失敗したことをはっきりさせるべきなのに

新聞もテレビも絶対に「景気後退」とは言わない。


日本では、景気後退局面入りの定義がはっきりと決まっている訳ではない、と逃げるつもりでしょうが、

安倍首相が盛んに媚びへつらう、アメリカの基準では、教科書通りの「景気後退」です。


本来、消費増税どころか一時的に減税して家計の可処分所得を増やし、消費意欲を刺激し、

景気が良くなってから消費税を5%から8%に引き上げる、というのならば、理屈にあいますが、

個人消費が増える気配が全然無かったときに消費税を引き上げました。


給料は増えていませんから、消費増税したら、家計に負担になるにきまっています。

それでも再来年には、景気がどんな状態でも消費税率を10%にする、

というのは、安倍首相が従前から明言していることですが、

今の状態で更に消費税を引き上げたら、さらに景気が浮揚する時期が遅れるでしょう。


こういうことは、経済専門紙日経はもとより、全ての新聞、テレビなど、つまりマスメディアが

国民に分かりやすく説明するべきなのですが、「景気後退」という言葉を使って国家権力に

睨まれるのが怖いのでしょうか。マスコミがあまりにも書かないので、

だらだらと冗漫な文章になりましたが、私が書きました。

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2015.11.13

日本で初めての生体肝移植から、今日で26年です。私が書くのは、13回目です。

◆毎年、同じことを書き写していますが、忘れてはいけない事だと思います。


1989(平成元)年の今日、日本で初めて、生体部分肝移植手術が行われました。

今では、脳死肝移植が行われても、さほどの大ニュースとして扱われなくなり、

勿論、脳死したドナーの方はお気の毒なのですが、むしろ移植は「普通の事」になりました。

しかし、それは、比較的最近のことです。

日本では長い間、臓器移植は「タブ-」でした。その禁を破ったのが、

当時の島根医科大学(現在の島根大学医学部)第二外科、当時助教授だった、

永末直文先生です。永末先生が映画「孤高のメス」の当麻医師のモデルです。

今、日本で臓器提供意思表示欄が、運転免許証や健康保険証にまで、

(臓器を提供するかしないかは勿論任意ですが)印刷されるようになりました。

全て、永末先生の職を賭しての「決断」のお陰です。


◆そもそもの始まり。

移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。

山口県玖珂郡和木町、岩国市のすぐ北、広島との県境で開業していた木村直躬医師に、

裕弥ちゃんのおばあさんが、そのことを告げました。1988(昭和63)年12月のことです。

木村先生はエコー(超音波)で、ただちに、杉本裕弥ちゃんが、先天性胆道閉鎖症という病気である、と診断しました。

先天性胆道閉鎖症とは、生まれつき胆汁が流れ出る道がふさがっていて、胆汁が肝臓へ流れていかないので、

黄疸が段々強くなり、しまいには、肝硬変で死に至る病です。


◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。

この世に生を受けて間もない赤ん坊が、

可哀想なことに、何度も手術を受ける運命にあったのです。

木村先生の紹介で、地元山口県の国立岩國病院の小児外科により、胆管を何とか開く手術が行われました。

1度では上手く行かず、2度目の手術も失敗でした。

岩國病院の担当医から、木村先生(最初に裕弥ちゃんを診察した開業医の先生)の元に、手紙が来て、

「この子の予後はホープレス(望みがない)」とのことでした。残酷な宣告です。

それでも、裕弥ちゃんの家族は諦めませんでした。

木村先生に、何とか手段は無いか、と聞きました。先生は肝移植以外に道はない。といいました。

日本では、移植手術はタブーとされていました。

1968年札幌医大で行われた日本初の心臓移植手術の失敗が、その背景にありますが、その説明は省きます。

日本木村先生はオーストラリアの病院に問い合わせましたが、オーストラリアの病院は

「生体肝移植は難しくて無理だ。」という、つれない返事をよこしてきました。

しかし、木村先生も諦めませんでした。


◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。

木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。

木村先生は内科、永末先生は外科ですが、肝臓を専門とすることで共通していました。

木村先生がエコーで肝臓ガンを診断し、永末先生が切除可能な肝ガンの手術を6年間で200例も手がけていました。

木村先生は「生体肝移植を頼むなら、(島根医大に移った)永末君しかいない」と思いました。

永末先生は、最初あまり乗り気ではなく、オーストラリアの病院で手術を受けることを進めました。

これは、前述の通り当時の日本の医学界で「移植」という言葉はタブーだったのです。

このタブーを破った医師は、医師生命を絶たれる危険がありました。ですから、最初に永末先生が積極的ではなかったことも、

無理からぬことだったと言って良いでしょう。

ところが、木村先生は諦めませんでした。講演のため、広島に来た永末先生に会い、

とにかく裕弥ちゃんの診察だけでもしてくれ、と、頼みました。永末先生は引き受けました。

永末医師が初めて診る裕弥ちゃんは、黄疸が強く出ていて、溜まった腹水でおなかがパンパンに膨れて、静脈が浮き出ていました。

既に食道静脈瘤が出来ている可能性があり、これでは、いつ吐血してもおかしくない。

吐血しなくてもあと1ヶ月ほどの命、と永末先生は思いました。まだ、生後一年経っていない赤ん坊が肝硬変です。残酷な現実でした。

裕弥ちゃんの体力が移植手術に耐えられるか、五分五分だと考えました。


◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。

永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、


  • 正確なことは精密検査をしないと分からないが、移植手術は出来そうなこと。

  • 但し、島根医大の永末医師のグループでは生体肝移植の経験がないので、上手くいくかどうか保証できないこと。

  • 手術まで持ち込めても、裕弥ちゃんの全身状態があまりにも悪いので、手術に持ちこたえられずに亡くなる可能性も高いこと、


という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。

永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。
このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。

そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。
「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」

15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。
「お願いします」

その言葉に永末先生の気持ちが動きました。

「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。

ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。


◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。

永末先生の気持ちは固まりました。

当時永末先生は助教授でしたから、第二外科の部長中村教授の了解も取り付けました。

自分の研究室に戻った永末先生は、肝臓グループの医師たちに、裕弥ちゃんの生体肝移植を引き受けることにした、と言いました。

医師達は全員無言になりました。

「日本で初めての生体肝移植」であることに加え、裕弥ちゃんの症状が悪すぎる、と専門医たちは誰もが思ったのです。

スタッフが躊躇っているのを見て、永末先生は、言いました。

「我々は『肝移植』を標榜している。

赤ちゃんは死にかけている。家族は結果は問わないからやってくれという。責任は全て私が取る。

目の前の赤ちゃんを救えないような研究なら意味は無い。もしこの移植を拒むなら、明日から移植の研究など止めてしまおう。」

第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。


◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。

手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。

中村先生は、心配していました。

「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。

しかし、君はこの手術で全てを失うかも知れない。僕はそれがいちばん心配だ。本当に君はそうなってもかまわないのか」

その都度、永末先生は答えました。
「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」

この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。

しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。

後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。

「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」

淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。

これほど立派な医師を見たことがありません。

裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。

そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。

家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、

チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。

母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。

島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。

それはそれで、良いことです。

しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。

島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。

島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。

永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。

永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。


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