カテゴリー「歴史」の記事

2015.11.13

日本で初めての生体肝移植から、今日で26年です。私が書くのは、13回目です。

◆毎年、同じことを書き写していますが、忘れてはいけない事だと思います。


1989(平成元)年の今日、日本で初めて、生体部分肝移植手術が行われました。

今では、脳死肝移植が行われても、さほどの大ニュースとして扱われなくなり、

勿論、脳死したドナーの方はお気の毒なのですが、むしろ移植は「普通の事」になりました。

しかし、それは、比較的最近のことです。

日本では長い間、臓器移植は「タブ-」でした。その禁を破ったのが、

当時の島根医科大学(現在の島根大学医学部)第二外科、当時助教授だった、

永末直文先生です。永末先生が映画「孤高のメス」の当麻医師のモデルです。

今、日本で臓器提供意思表示欄が、運転免許証や健康保険証にまで、

(臓器を提供するかしないかは勿論任意ですが)印刷されるようになりました。

全て、永末先生の職を賭しての「決断」のお陰です。


◆そもそもの始まり。

移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。

山口県玖珂郡和木町、岩国市のすぐ北、広島との県境で開業していた木村直躬医師に、

裕弥ちゃんのおばあさんが、そのことを告げました。1988(昭和63)年12月のことです。

木村先生はエコー(超音波)で、ただちに、杉本裕弥ちゃんが、先天性胆道閉鎖症という病気である、と診断しました。

先天性胆道閉鎖症とは、生まれつき胆汁が流れ出る道がふさがっていて、胆汁が肝臓へ流れていかないので、

黄疸が段々強くなり、しまいには、肝硬変で死に至る病です。


◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。

この世に生を受けて間もない赤ん坊が、

可哀想なことに、何度も手術を受ける運命にあったのです。

木村先生の紹介で、地元山口県の国立岩國病院の小児外科により、胆管を何とか開く手術が行われました。

1度では上手く行かず、2度目の手術も失敗でした。

岩國病院の担当医から、木村先生(最初に裕弥ちゃんを診察した開業医の先生)の元に、手紙が来て、

「この子の予後はホープレス(望みがない)」とのことでした。残酷な宣告です。

それでも、裕弥ちゃんの家族は諦めませんでした。

木村先生に、何とか手段は無いか、と聞きました。先生は肝移植以外に道はない。といいました。

日本では、移植手術はタブーとされていました。

1968年札幌医大で行われた日本初の心臓移植手術の失敗が、その背景にありますが、その説明は省きます。

日本木村先生はオーストラリアの病院に問い合わせましたが、オーストラリアの病院は

「生体肝移植は難しくて無理だ。」という、つれない返事をよこしてきました。

しかし、木村先生も諦めませんでした。


◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。

木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。

木村先生は内科、永末先生は外科ですが、肝臓を専門とすることで共通していました。

木村先生がエコーで肝臓ガンを診断し、永末先生が切除可能な肝ガンの手術を6年間で200例も手がけていました。

木村先生は「生体肝移植を頼むなら、(島根医大に移った)永末君しかいない」と思いました。

永末先生は、最初あまり乗り気ではなく、オーストラリアの病院で手術を受けることを進めました。

これは、前述の通り当時の日本の医学界で「移植」という言葉はタブーだったのです。

このタブーを破った医師は、医師生命を絶たれる危険がありました。ですから、最初に永末先生が積極的ではなかったことも、

無理からぬことだったと言って良いでしょう。

ところが、木村先生は諦めませんでした。講演のため、広島に来た永末先生に会い、

とにかく裕弥ちゃんの診察だけでもしてくれ、と、頼みました。永末先生は引き受けました。

永末医師が初めて診る裕弥ちゃんは、黄疸が強く出ていて、溜まった腹水でおなかがパンパンに膨れて、静脈が浮き出ていました。

既に食道静脈瘤が出来ている可能性があり、これでは、いつ吐血してもおかしくない。

吐血しなくてもあと1ヶ月ほどの命、と永末先生は思いました。まだ、生後一年経っていない赤ん坊が肝硬変です。残酷な現実でした。

裕弥ちゃんの体力が移植手術に耐えられるか、五分五分だと考えました。


◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。

永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、


  • 正確なことは精密検査をしないと分からないが、移植手術は出来そうなこと。

  • 但し、島根医大の永末医師のグループでは生体肝移植の経験がないので、上手くいくかどうか保証できないこと。

  • 手術まで持ち込めても、裕弥ちゃんの全身状態があまりにも悪いので、手術に持ちこたえられずに亡くなる可能性も高いこと、


という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。

永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。
このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。

そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。
「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」

15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。
「お願いします」

その言葉に永末先生の気持ちが動きました。

「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。

ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。


◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。

永末先生の気持ちは固まりました。

当時永末先生は助教授でしたから、第二外科の部長中村教授の了解も取り付けました。

自分の研究室に戻った永末先生は、肝臓グループの医師たちに、裕弥ちゃんの生体肝移植を引き受けることにした、と言いました。

医師達は全員無言になりました。

「日本で初めての生体肝移植」であることに加え、裕弥ちゃんの症状が悪すぎる、と専門医たちは誰もが思ったのです。

スタッフが躊躇っているのを見て、永末先生は、言いました。

「我々は『肝移植』を標榜している。

赤ちゃんは死にかけている。家族は結果は問わないからやってくれという。責任は全て私が取る。

目の前の赤ちゃんを救えないような研究なら意味は無い。もしこの移植を拒むなら、明日から移植の研究など止めてしまおう。」

第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。


◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。

手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。

中村先生は、心配していました。

「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。

しかし、君はこの手術で全てを失うかも知れない。僕はそれがいちばん心配だ。本当に君はそうなってもかまわないのか」

その都度、永末先生は答えました。
「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」

この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。

しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。

後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。

「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」

淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。

これほど立派な医師を見たことがありません。

裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。

そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。

家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、

チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。

母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。

島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。

それはそれで、良いことです。

しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。

島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。

島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。

永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。

永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。


【読者の皆様にお願い】
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2014.11.13

日本で初めての生体肝移植から、今日で25年です。私が書くのは、12回目です。

◆毎年、同じことを書き写していますが、忘れてはいけない事だと思います。


1989(平成元)年の今日、日本で初めて、生体部分肝移植手術が行われました。

今では、脳死肝移植が行われても、さほどの大ニュースとして扱われなくなり、

勿論、脳死したドナーの方はお気の毒なのですが、むしろ移植は「普通の事」になりました。

しかし、それは、比較的最近のことです。

日本では長い間、臓器移植は「タブ-」でした。その禁を破ったのが、

当時の島根医科大学(現在の島根大学医学部)第二外科、当時助教授だった、

永末直文先生です。永末先生が映画「孤高のメス」の当麻医師のモデルです。

今、日本で臓器提供意思表示欄が、運転免許証や健康保険証にまで、

(臓器を提供するかしないかは勿論任意ですが)印刷されるようになりました。

全て、永末先生の職を賭しての「決断」のお陰です。


◆そもそもの始まり。

移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。

山口県玖珂郡和木町、岩国市のすぐ北、広島との県境で開業していた木村直躬医師に、

裕弥ちゃんのおばあさんが、そのことを告げました。1988(昭和63)年12月のことです。

木村先生はエコー(超音波)で、ただちに、杉本裕弥ちゃんが、先天性胆道閉鎖症という病気である、と診断しました。

先天性胆道閉鎖症とは、生まれつき胆汁が流れ出る道がふさがっていて、胆汁が肝臓へ流れていかないので、

黄疸が段々強くなり、しまいには、肝硬変で死に至る病です。


◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。

この世に生を受けて間もない赤ん坊が、

可哀想なことに、何度も手術を受ける運命にあったのです。

木村先生の紹介で、地元山口県の国立岩國病院の小児外科により、胆管を何とか開く手術が行われました。

1度では上手く行かず、2度目の手術も失敗でした。

岩國病院の担当医から、木村先生(最初に裕弥ちゃんを診察した開業医の先生)の元に、手紙が来て、

「この子の予後はホープレス(望みがない)」とのことでした。残酷な宣告です。

それでも、裕弥ちゃんの家族は諦めませんでした。

木村先生に、何とか手段は無いか、と聞きました。先生は肝移植以外に道はない。といいました。

日本では、移植手術はタブーとされていました。

1968年札幌医大で行われた日本初の心臓移植手術の失敗が、その背景にありますが、その説明は省きます。

日本木村先生はオーストラリアの病院に問い合わせましたが、オーストラリアの病院は

「生体肝移植は難しくて無理だ。」という、つれない返事をよこしてきました。

しかし、木村先生も諦めませんでした。


◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。

木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。

木村先生は内科、永末先生は外科ですが、肝臓を専門とすることで共通していました。

木村先生がエコーで肝臓ガンを診断し、永末先生が切除可能な肝ガンの手術を6年間で200例も手がけていました。

木村先生は「生体肝移植を頼むなら、(島根医大に移った)永末君しかいない」と思いました。

永末先生は、最初あまり乗り気ではなく、オーストラリアの病院で手術を受けることを進めました。

これは、前述の通り当時の日本の医学界で「移植」という言葉はタブーだったのです。

このタブーを破った医師は、医師生命を絶たれる危険がありました。ですから、最初に永末先生が積極的ではなかったことも、

無理からぬことだったと言って良いでしょう。

ところが、木村先生は諦めませんでした。講演のため、広島に来た永末先生に会い、

とにかく裕弥ちゃんの診察だけでもしてくれ、と、頼みました。永末先生は引き受けました。

永末医師が初めて診る裕弥ちゃんは、黄疸が強く出ていて、溜まった腹水でおなかがパンパンに膨れて、静脈が浮き出ていました。

既に食道静脈瘤が出来ている可能性があり、これでは、いつ吐血してもおかしくない。

吐血しなくてもあと1ヶ月ほどの命、と永末先生は思いました。まだ、生後一年経っていない赤ん坊が肝硬変です。残酷な現実でした。

裕弥ちゃんの体力が移植手術に耐えられるか、五分五分だと考えました。


◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。

永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、


  • 正確なことは精密検査をしないと分からないが、移植手術は出来そうなこと。

  • 但し、島根医大の永末医師のグループでは生体肝移植の経験がないので、上手くいくかどうか保証できないこと。

  • 手術まで持ち込めても、裕弥ちゃんの全身状態があまりにも悪いので、手術に持ちこたえられずに亡くなる可能性も高いこと、


という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。

永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。
このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。

そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。
「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」

15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。
「お願いします」

その言葉に永末先生の気持ちが動きました。

「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。

ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。


◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。

永末先生の気持ちは固まりました。

当時永末先生は助教授でしたから、第二外科の部長中村教授の了解も取り付けました。

自分の研究室に戻った永末先生は、肝臓グループの医師たちに、裕弥ちゃんの生体肝移植を引き受けることにした、と言いました。

医師達は全員無言になりました。

「日本で初めての生体肝移植」であることに加え、裕弥ちゃんの症状が悪すぎる、と専門医たちは誰もが思ったのです。

スタッフが躊躇っているのを見て、永末先生は、言いました。

「我々は『肝移植』を標榜している。

赤ちゃんは死にかけている。家族は結果は問わないからやってくれという。責任は全て私が取る。

目の前の赤ちゃんを救えないような研究なら意味は無い。もしこの移植を拒むなら、明日から移植の研究など止めてしまおう。」

第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。


◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。

手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。

中村先生は、心配していました。

「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。

しかし、君はこの手術で全てを失うかも知れない。僕はそれがいちばん心配だ。本当に君はそうなってもかまわないのか」

その都度、永末先生は答えました。
「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」

この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。

しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。

後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。

「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」

淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。

これほど立派な医師を見たことがありません。

裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。

そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。

家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、

チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。

母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。

島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。

それはそれで、良いことです。

しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。

島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。

島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。

永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。

永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。


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2014.01.10

「舛添氏推薦を決定=都知事選で自民都連」←絶対、舛添氏に投票しては、いけません。

◆記事:舛添氏推薦を決定=都知事選で自民都連(時事通信 1月10日(金)11時55分配信)

自民党東京都連は10日、猪瀬直樹前知事の辞職に伴う都知事選(23日告示、2月9日投開票)で、

立候補の意向を表明している舛添要一元厚生労働相(65)を推薦することを決めた。これを受け、

同党執行部が近く対応を判断。2010年に離党して新党改革を結成した舛添氏を除名した経緯を踏まえ、

党本部ではなく都連の推薦にとどめる方向で検討する。


◆コメント:舛添氏に投票するということは、安倍政権を支持することです。

これは東京都有権者の見識が問われる選挙です。

東京都連とはいえ、自民党が舛添氏を推薦することを明らかにした以上、

東京の有権者は絶対に舛添候補に投票してはいけません。

それは、先日、特に急ぐ理由もない、特定秘密保護法案を、まだ、議論することがある、という野党を無視して、

強行採決に踏み切ったことからも、その独裁的志向が明らかな安倍政権を支持することになります。

「自分は安倍は嫌いだが、舛添は良いと思う」というのが、ダメなんです。

舛添が勝ったら自民党が勝ったことになる。

すると、安倍晋三は「自分の政策が首都の有権者に支持された」とコメントすることでしょう。

コメントだけではなく、実際にそう見なす根拠を与えることになります。

投票するべきは誰か?はまだ分かりませんが、舛添は「絶対に」ダメです。


元航空幕僚長の田母神俊雄も絶対にいけません。

田母神俊雄氏は「日中戦争は侵略戦争ではなく、日本が被害者だ」という趣旨の「田母神論文」を書いた奴です。

バカです。これは、この一言で、間違いなくバカです。

こいつら、戦争したくて仕方が無い筈です。鉄砲撃ちたくて仕方がない奴らです。


太平洋戦争というか大陸側に関して言うと「大東亜戦争」ですが、そこに至る歴史の流れを教科書で読んでも

つまらないし、分かり難い。

悪いことを言わないから、阿川弘之氏の三部作を読んで下さい。

米内光政山本五十六(上)(下)井上成美(しげよし)

です。言うまでもなく、太平洋戦争に負ける前は、明治憲法で、日本は「戦争の放棄」などといっておらず、公然と「軍隊」を持ち「戦争の為の訓練」をしていた。

つまり、「戦争をしてもいい」時代の日本で、この三人は、暗殺される危険も顧みず、
日独伊三国同盟や、アメリカ・イギリスと戦争をするなどもってのほか

と、言い続けた人々です。山本五十六は、盧溝橋事件の際、
陸軍のバカが始めやがった

と激怒し、米内光政は「米英に相手に戦うことになったらどうなります?」との質問に
勝てる見込みはありません。そもそも日本の海軍は米英と戦争をするように建造されておりません。

と、断言し、井上成美は命ぜられてもいないのに、論文で、アメリカと戦争なんかしたら、
1.日本国全土の占領が可能。2.首都(東京)の占領も可能。3.作戦軍(陸海軍)の殲滅(せんめつ)も可能。

と書き、全てその通りになりましたが、これが理由で左遷させられ、それでも全く意見を変えなかった。

国民の税金で軍艦を作り、戦闘機をつくり、兵隊の訓練をしている状態の日本でこういうことを言う勇気は

多分、今の日本人の想像を超えています。が、田母神などよりもよほど、正しい。

ま、それはともかくこの3冊でかなり勉強になります。日中戦争は侵略戦争ではなかったなどという

危険な人物を都知事にしては、いけません。

この後、誰が立候補するかわかりませんが、とにかく舛添、田母神は問題外です。

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2013.11.12

11回目です。24年前(1989年)の11月13日、日本で初めての生体肝移植が行われました。

◆毎年、同じことを書き写していますが、忘れてはいけない事だと思います。

今では、脳死肝移植が行われても、さほどの大ニュースとして扱われなくなり、

勿論、脳死したドナーの方はお気の毒なのですが、むしろ移植は「普通の事」になりました。

しかし、それは、比較的最近のことです。

日本では長い間、臓器移植は「タブ-」でした。その禁を破ったのが、

当時の島根医科大学(現在の島根大学医学部)第二外科、当時助教授だった、

永末直文先生です。永末先生が映画「孤高のメス」の当麻医師のモデルです。

今、日本で臓器提供意思表示欄が、運転免許証や健康保険証にまで、

(臓器を提供するかしないかは勿論任意ですが)印刷されるようになりました。

全て、永末先生の職を賭しての「決断」のお陰です。


◆そもそもの始まり。

移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。

山口県玖珂郡和木町、岩国市のすぐ北、広島との県境で開業していた木村直躬医師に、

裕弥ちゃんのおばあさんが、そのことを告げました。1988(昭和63)年12月のことです。

木村先生はエコー(超音波)で、ただちに、杉本裕弥ちゃんが、先天性胆道閉鎖症という病気である、と診断しました。

先天性胆道閉鎖症とは、生まれつき胆汁が流れ出る道がふさがっていて、胆汁が肝臓へ流れていかないので、

黄疸が段々強くなり、しまいには、肝硬変で死に至る病です。


◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。

この世に生を受けて間もない赤ん坊が、

可哀想なことに、何度も手術を受ける運命にあったのです。

木村先生の紹介で、地元山口県の国立岩國病院の小児外科により、胆管を何とか開く手術が行われました。

1度では上手く行かず、2度目の手術も失敗でした。

岩國病院の担当医から、木村先生(最初に裕弥ちゃんを診察した開業医の先生)の元に、手紙が来て、

「この子の予後はホープレス(望みがない)」とのことでした。残酷な宣告です。

それでも、裕弥ちゃんの家族は諦めませんでした。

木村先生に、何とか手段は無いか、と聞きました。先生は肝移植以外に道はない。といいました。

日本では、移植手術はタブーとされていました。

1968年札幌医大で行われた日本初の心臓移植手術の失敗が、その背景にありますが、その説明は省きます。

日本木村先生はオーストラリアの病院に問い合わせましたが、オーストラリアの病院は

「生体肝移植は難しくて無理だ。」という、つれない返事をよこしてきました。

しかし、木村先生も諦めませんでした。


◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。

木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。

木村先生は内科、永末先生は外科ですが、肝臓を専門とすることで共通していました。

木村先生がエコーで肝臓ガンを診断し、永末先生が切除可能な肝ガンの手術を6年間で200例も手がけていました。

木村先生は「生体肝移植を頼むなら、(島根医大に移った)永末君しかいない」と思いました。

永末先生は、最初あまり乗り気ではなく、オーストラリアの病院で手術を受けることを進めました。

これは、前述の通り当時の日本の医学界で「移植」という言葉はタブーだったのです。

このタブーを破った医師は、医師生命を絶たれる危険がありました。ですから、最初に永末先生が積極的ではなかったことも、

無理からぬことだったと言って良いでしょう。

ところが、木村先生は諦めませんでした。講演のため、広島に来た永末先生に会い、

とにかく裕弥ちゃんの診察だけでもしてくれ、と、頼みました。永末先生は引き受けました。

永末医師が初めて診る裕弥ちゃんは、黄疸が強く出ていて、溜まった腹水でおなかがパンパンに膨れて、静脈が浮き出ていました。

既に食道静脈瘤が出来ている可能性があり、これでは、いつ吐血してもおかしくない。

吐血しなくてもあと1ヶ月ほどの命、と永末先生は思いました。まだ、生後一年経っていない赤ん坊が肝硬変です。残酷な現実でした。

裕弥ちゃんの体力が移植手術に耐えられるか、五分五分だと考えました。


◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。

永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、


  • 正確なことは精密検査をしないと分からないが、移植手術は出来そうなこと。

  • 但し、島根医大の永末医師のグループでは生体肝移植の経験がないので、上手くいくかどうか保証できないこと。

  • 手術まで持ち込めても、裕弥ちゃんの全身状態があまりにも悪いので、手術に持ちこたえられずに亡くなる可能性も高いこと、


という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。

永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。
このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。

そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。
「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」

15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。
「お願いします」

その言葉に永末先生の気持ちが動きました。

「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。

ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。


◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。

永末先生の気持ちは固まりました。

当時永末先生は助教授でしたから、第二外科の部長中村教授の了解も取り付けました。

自分の研究室に戻った永末先生は、肝臓グループの医師たちに、裕弥ちゃんの生体肝移植を引き受けることにした、と言いました。

医師達は全員無言になりました。

「日本で初めての生体肝移植」であることに加え、裕弥ちゃんの症状が悪すぎる、と専門医たちは誰もが思ったのです。

スタッフが躊躇っているのを見て、永末先生は、言いました。

「我々は『肝移植』を標榜している。

赤ちゃんは死にかけている。家族は結果は問わないからやってくれという。責任は全て私が取る。

目の前の赤ちゃんを救えないような研究なら意味は無い。もしこの移植を拒むなら、明日から移植の研究など止めてしまおう。」

第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。


◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。

手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。

中村先生は、心配していました。

「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。

しかし、君はこの手術で全てを失うかも知れない。僕はそれがいちばん心配だ。本当に君はそうなってもかまわないのか」

その都度、永末先生は答えました。
「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」

この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。

しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。

後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。

「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」

淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。

これほど立派な医師を見たことがありません。

裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。

そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。

家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、

チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。

母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。

島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。

それはそれで、良いことです。

しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。

島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。

島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。

永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。

永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。

【読者の皆様にお願い】

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2013.05.30

「ブラームスって、割とこの頃の人よね」←26年前に91歳で他界した祖母の言葉です。

◆今まで、書いたことがないので、一回ぐらい書いておきます。

書くのを避けていたのはですね。祖母のプロフィールを書くと、自慢めいてしまう、ということが

あったのですが、まあ、もうとっくの昔の死んだ人間だから良いでしょう。ご勘弁下さい。


私の祖母は、19世紀生まれなのです。1895(明治28)年8月23日-1987(昭和62)年5月29日。

今日が命日なので、少々記憶に残っていることを書きます。


祖母は孫を溺愛するタイプの人ではなかったので、私もさほどなついていたわけではないのですが、

なにしろ、同じ家に住んでいましたから、記憶は鮮明です。


明治28年(1895年)に仙台の、元来は武家だったらしいです。そういう家に生まれた所為もあり、

また、後述する経歴もあり、気位(きぐらい)の高い人でした。


明治に仙台とはいえ、東北に生まれた祖母がどうやって勉強したのか、今から思うともっとよくきいておけば

よかったのですが、とにかく西洋音楽に魅せられ、芸大音楽学科の前身、東京音楽学校声楽科にはいりました。

入試で、ピアノも楽典もソルフェージュもあったんです。どうやって東北で勉強出来たのか不思議でなりません。


もちろん、技術的水準を単純に現代と比較したら、話になりませんが、それでも驚いた事に祖母は確かに声楽的発声の訓練を

受けていました。子供の頃から、祖母は近所の子供にピアノなど教えていましたが、ピアノの上には、ドイツ人の声楽の師匠の

写真がずっと飾ってありました。


◆女子学習院教授という大層な肩書きの人でした。

その当時は「東京音楽学校声楽科」の人数がとても少なかったでしょうから、割と簡単だったのでしょう。

首席で卒業した祖母は、どういういきさつか、昔の、本当の学習院、皇族や華族の娘しか、入れない、

「女子学習院」という今なら高校から大学だとおもいますが、肩書きが「教授」だったのです。

それが、多分、生涯誇りだったのだろうと思います。昭和天皇のお后、昭和の皇后陛下も、そのお嬢さん

(つまり、昭和天皇のお嬢様方)の「音楽の先生」なんですね。

昭和の皇后陛下は、ご自分も、お嬢様方も一応、祖母に音楽を習ったので、お目にかかると、祖母に

娘がお世話になります。

とおっしゃっていたそうです。こちらが冷や汗をかきます。

祖母が亡くなったときには、昭和の皇后陛下のお使い。天皇陛下のお使いは「勅使」ですが皇后陛下のお言葉を伝える人はなんというのでしょうか?

とにかく、非常に緊張するはめになったのですが、祖母が他界した際、皇居からお使いがくるというのです。宮内庁から電話があるんです。

待っていると、やがて、両手に大きな桐の箱を持った人が来宅し、玄関で直立不動のまま、
皇后陛下におかれましては、故・〇〇〇〇(←祖母の姓名。「家来」だから、呼び捨て)の死去に際し、お菓子を賜りました。ここにお届け致します。

という調子ですから、こちらも直立不動なんです。何だかんだいっても、皇后陛下からじきじきに・・・といわれたらアガります。


◆とても不思議なのですが、私が初めてのオペラを観て、帰宅してしばらくしてから亡くなりました。

実は、私はその何ヶ月も前に、NHKホールでのメトロポリタン歌劇場来日公演のチケットを買っていました。

5月29日の公演です。それが生まれて初めてのオペラ鑑賞でしたが、祖母がもう時間の問題なので、諦めようと言ったら、

今はこちらも死んでから随分経ちますが、父が構わんから行け、と申します。

これも何かの偶然だろうと。声楽に情熱を注いだ祖母の(まだ生きていますが)供養になるかもしれんから、

行ってこいと、いうので、行って、全部見終わって、帰宅したその夜遅くに、祖母は私のオペラ鑑賞を待っていてくれたかのように

息をひきとりました。不思議が気がしました。


◆ブラームスと祖母の生涯は2年だけですが重なっているのです。

前置きが大変長くなりました。要するに、私の祖母が西洋音楽に関してド素人ではなかった、ということを

申しあげれば良かったのですが、余計なことまで書きました。

当時といえど、やはり訓練を受けた人はそれだけの「耳」がありまして、私がN響の第九など

テレビで聴いていたら、祖母が「この人は、音程がとてもいいわね」とか「このティンパニの方、正確ね」とか。

そういうことが多かったです。

「ダメよ、こんなところで間違えちゃ」とか、コンチェルトでソリストが合わないと、

「ダメだ。そんな勝手なことをしたら」とかいうんです。的を射ているのです。

自分が若い頃、ショパンの「幻想即興曲」を聴いたときに「この世にこれほど綺麗な音楽があるのかと思った」とも

言ってましたが、とりわけ衝撃的だったのは、ブラームスの交響曲を聴いていたら、何気無く祖母が発した、

ブラームスって、割とこの頃の人よね。

という言葉でした。一瞬、呆けたのかとおもい、唖然としましたが、調べたら、ブラームスの生涯は

1833年5月7日 - 1897年4月3日なのです。祖母が生まれたのが1895年ですから、2年弱ですが同時代を生きています。

ということは、祖母が、音楽学生だった頃、ブラームスはまだ、没後20年足らずの作曲家。私の年齢でなぞらえると

ヒンデミットとか、イベールとかと同じなんです。

なるほど。「この頃の人」というのも無理は無い。

時代は繋がっている、という当たり前のことですが、それを非常に強く感じました。

完全に私事で失礼をいたしました。

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2013.03.17

「<安倍首相>「東京裁判は勝者の断罪」…米から批判の可能性」←安倍首相はアメリカに潰されるかもしれません。

◆記事:<安倍首相>「東京裁判は勝者の断罪」…米から批判の可能性(毎日新聞 3月12日(火)21時23分配信)

安倍晋三首相は12日の衆院予算委員会で、第二次世界大戦の戦犯を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)について

「大戦の総括は日本人自身の手でなく、いわば連合国側の勝者の判断によって断罪がなされた」と述べた。

首相は第1次内閣で東京裁判を「受諾しており異議を述べる立場にない」と国会答弁しており、

この方針は維持するとみられる。しかし東京裁判に懐疑的な見方を示したことには中韓両国などのほか、

戦勝国の米国から批判が出る可能性もある。


◆コメント:理屈はそうなんですけど「敗戦国」から元の地位にもどる前提は「東京裁判」を受け入れることだったのです。

歴史を客観的に見て、常識で判断する限りは、安倍首相の言う通りなのです。

東京裁判(極東国際軍事裁判)は、戦争の当事者の一方が他方を裁く。

戦勝国が、裁判官を出して、敗戦国の戦争首謀者を「裁いて」戦犯を絞首刑にしたり、

「罰し」ました。


本来裁判というのは、刑事であろうが、民事であろうが、国際法の裁判であろうが、紛争当事者

双方と、何ら利害関係の無い第三者が判断して、罪の有無、刑罰の程度を決めるものですから、

東京裁判は、最初から、裁判制度の本質を逸脱している。


ですから、単なる意見としては、安倍首相の発言は論理的に正しいのですが、首相の発言としてはまずいのです。


第二次世界大戦が外交上正式に終わったのは、

1951年9月8日,サンフランシスコ市内のオペラハウスで調印され,52年4月28日発効した「対日平和条約、

通称「サンフランシスコ講和条約」の締結によるもので、これによって日本は、連合国うち48カ国との間で国際法的に

正式に戦争を終結させたのです。

このサンフランシスコ講和条約の11条の外務省訳には

極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾

これは、厳密にいうと解釈が分かれているのですが(裁判の受諾と判決の受諾は別ではないか?とか)、

細かいことを書き出すとキリがありません。

とにかく、日本は戦争に負けて「敗戦国扱い」で連合国軍の「占領下」にあったのですが、吉田茂が締結した

この「講和条約」で、兎にも角にも日本は国際法上、「敗戦国では無い」普通の国にもどれたのです。


くりかえしますが、世界中の国と終戦したのが「サンフランシスコ講和条約締結」で、

その条約の中に「東京裁判の結果に文句をいいません」という内容が含まれているのです。


いくら裁判そのものが理不尽だといっても、もはや仕方が無い。


それを今更、日本の内閣総理大臣が「東京裁判批判」をするということは、「反則」です。

煩瑣になるのでいちいち記事の原文や翻訳をここに引用しませんが、数週間前に読んだ

イギリスの、The Economist誌によれば、安倍首相がやたらと憲法改正とか、集団的自衛権の許容とか

武器輸出三原則の拡大解釈などを言い出しているのに、一番警戒心を抱いているのはアメリカだそうです。

もしも、今年の参議院選挙でも自民党が過半数をとり、戦争放棄を謳った日本国憲法第9条を廃止するとか、

全く新しい憲法を定めるとか、が現実になったら、中国が本気で警戒し、極東における軍事的緊張が高まります。

日本に基地を置いているアメリカは、もちろん、無関係ではいられません。


ここから先は、完全に私個人の予想というか、「想像」ですが、

安倍首相の「東京裁判批判」は中国・アメリカともに怒っているはずです。

私は安倍首相の「軍国主義復活願望」がなんとも危なくて仕方が無いとおもうのですが、

どうやら、アメリカも同じらしい(立場は違いますが)。


この調子で良い気になって、安倍首相には、ラディカルな(過激な)発言を続けて頂きたいと思います。

アメリカが安倍政権を潰してくれるでしょうから。

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2013.01.15

【英語】“I have a dream”「私には夢がある」キング牧師(1929~1968)の誕生日です。

◆全身全霊を込めた演説は、人の心を動かします。

キング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア Martin Luther King, Jr.)に関しては、Wikipedia

お読み下さい。

アメリカは1779年の独立宣言に、

全ての人間は平等に造られている

という文言があるにも関わらずその後も黒人の奴隷制度を、約100年も続けました。


そこでまず、「これはおかしい」と主張したのが、第16代アメリカ合衆国大統領、エイブラハム・リンカーンです。

この人は立派な人だと思います。自分は白人だし、アメリカの南部では、依然として黒人を奴隷としか考えない風土があったにも関わらず、

1862年9月、奴隷解放宣言を制定しました。

こういうことをしたら自らの生命が危険に晒されることを承知で(事実、3年後、1865年、観劇中に暗殺されます)、「黒人も白人も同じ人間である」と

頑として譲らなかった人です。我々の想像以上に、ものすごく正義漢と勇気に満ちあふれた行動です。


しかし、リンカーンの尽力にも関わらず、その後も黒人差別は続いた。

奴隷解放宣言から、さらに約100年後、1963年8月23日、職と自由を求めた「ワシントン大行進」の一環として25万人近い人々がワシントンDCに集結しました。

デモ参加者たちは、ワシントン記念塔からリンカーン記念堂まで行進した。そこですべての社会階層の人々が、

公民権と、皮膚の色や出身などに関係なくあらゆる市民を対象とした平等な保護を求めました。

この集会での最後の演説が、キング牧師の、“I have a dream”「私には夢がある」という演説です。

日本の政治家が、秘書に書かせた原稿を読むのとは違い、キング牧師自身の心の底からの悲しみと訴えが

国籍や人種に関係無く、人の心を打ちます。本当の歴史的な名演説だと思います。


◆キング牧師のみならず、アメリカに於ける歴史的な名演説集(音声とスクリプト)を読めるサイトがあります。

アメリカの演説のみならず、世界中の名演説を集めたサイトもありますが、

まずは英語に絞り混みます。一番有名なのは、多分、

American Rhetoric: Top 100 Speeches of the 20th Century by Rank

でしょう。

ご覧になるとわかりますが、TOP100の1番目が、Martin Luther King, Jr. "I Have A Dream"です。

リンクを開くと音声とスクリプト(原稿全文)が載っています。

これ以外にも、Googleで"I Have A Dream"を検索するといくらでも見つかると思います。

こういう演説を、音声を聞きながら、500回音読すると(信じられないでしょうが、それだけで)

非常に貴方の英語の語学力は向上している筈です。


辞書を引いても意味が分からないときには、「私には夢がある 全訳」で検索すればみつかりますが、

在日米国大使館の、「私には夢がある」(1963年)を見るといいでしょう。

とにかく、自分で音読することです。一番何も身に付かないのは、英語のスクリプトと邦訳を読みながら、

音声を聞き流すことです。聴くだけでは、絶対に話せるようには、なりません。


一番有名なところ("I have a dream"が繰り返される部分)の音声、スクリプト、邦訳を載せます。


音声です。"I Have A Dream"より。






今の部分の、スクリプトです。
I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal."

I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.

I have a dream that one day even the state of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.

I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.

I have a dream today!

I have a dream that one day, down in Alabama, with its vicious racists, with its governor having his lips dripping with the words of "interposition" and "nullification" -- one day right there in Alabama little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls as sisters and brothers.

I have a dream today!

I have a dream that one day every valley shall be exalted, and every hill and mountain shall be made low, the rough places will be made plain, and the crooked places will be made straight; "and the glory of the Lord shall be revealed and all flesh shall see it together."

最後に在日アメリカ大使館のサイトに載っている邦訳から抜萃引用します。

私には夢がある、つまりいつの日か、この国が立ち上がり、「我々はすべての人々は平等に作られている事を、自明の真理と信じる」というこの国の信条を真の意味で実現させることだ。

私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。

今日、私には夢がある。

私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。

今日、私には夢がある。

私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。

大きなお世話かつ僭越ですが、英語の上達には、こういうのを幾つも、何百回も反復音頭するのが最も効果的であると信じます。

我々は、日常生活において、このような「演説」を行うことはありませんが、それは関係ないのです。

実行してみると、わかります。

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2012.11.12

23年前(1989年)の11月13日、日本で初めての生体肝移植が行われました。

◆今年で10回目になりますが、同じ事を書き続けます。

日本人は良いことも悪いことも、何でもすぐに忘れます。

しかし、偉大な決断と行為、それを実行した人々のことは、永遠に語り継がれるべきです。

1989年11月13日、日本で初めて、当時の島根医科大学第二外科の永末直文助教授が、

生体部分肝移植手術を行いました。

日本では、1960年代に北海道の大学病院で「脳死心臓移植」が行われたのですが、

ドナー(臓器提供者)に十分な蘇生は行ったのか?脳死判定は適切だったのか?などが大問題となり、

執刀医には殺人容疑まで掛けられ、以後数十年、日本では「臓器移植」は医学界のタブーだったのです。

それを「最初に破る」決断は物凄い勇気だと思うのです。

以下は、毎年同じ文章ですが、今年初めてお読みの方もいらっしゃるでしょうし、事実は一つですから、

あれこれ違う書き方をする必要はない、と思うのです。

以下、この段落と内容が重複する部分がありますが、昨年書いたことを、そのまま載せます。


◆偉大な行為が忘れられてはならない、と思います。

毎年、11月13日は、余程の突発的事態が起きない限り、これを書き続けています。

1989年11月13日、今は島根大学医学部になってしまいましたが、

島根医科大学、第二外科の永末直文助教授(当時)のチームが

日本で初めての生体部分肝移植手術を行った日です。


日本では、1968年に初めての臓器移植手術が行われました。

それは、札幌医科大学で、故・和田寿郎医師(1922年3月11日 - 2011年2月14日)による心臓移植手術でしたが、

何しろ43年も前のことで、今のように臓器移植コーディネーターなど存在せず、

脳死判定基準も、臓器移植に関する法整備も全然対応出来ていなかった、等の背景があり

また、心臓のドナーが、現在で言う所の臨床的脳死、法的脳死の条件を満たしていたかも

定かではなく、和田医師が殺人罪等で刑事告発されるという大事件になってしまいました。

記述内容の信頼性を私は検証できませんが、事態の概略はWikipediaの

和田心臓移植事件に書かれています。


和田医師の医療行為の医学的妥当性に関しても、当然、私は論評できませんが、

確かに云えることは、この「事件」以来、日本の医学界では

「臓器移植」が完全に「タブー」となってしまい、

その後の日本の臓器移植医療技術の進歩に遅延が生じたことです。


1989年に島根医科大学第二外科が行った生体部分肝移植手術は、

「生体」の二文字でわかるとおり、脳死移植とは異なる手術ですけれども、

とにもかくにも、長い間日本の医学界で最大のタブーであった「移植手術」の

実行を決断した、永末先生と島根医科大学は立派でした。

私は医者ではないけれども、このとき、移植手術を行う決断をする勇気は、

我々の想像を絶するものだったことは想像に難くない。

後述しますが、永末先生は手術が失敗したら勿論、成功しても、医学界や

ロクに勉強していないマスコミや、身勝手で感情的な世論のバッシングを受けて、

大学を去る、つまり、研究活動を諦めることになること、いや、それどころか、

医師免許を剥奪されることすら、覚悟をしていたのでした。


余談ですが、映画化された「孤高のメス」の主人公、当麻鉄彦医師のモデルは、

だそうです。孤高のメスの年代設定をよくご覧頂くとわかりますが、映画の当麻医師が脳死肝移植を行うのは、

歴史的事実である島根医大の生体部分肝移植と同じ1989年です。


兎にも角にも日本人は、良いことも悪いことも直ぐに忘れる。

いつまでもネチネチ人を恨んだりしないのは良いところかもしれませんが、

世の中で為された立派な行為、業績を忘れてはいけないとおもうのです。

だから私は毎年生体肝移植をリマインドするのです。

日本の人口は2010年の国勢調査によると、約1億2千8百万人だそうですが、

こんなことをしているのは、私だけではないか、と思います。


◆そもそもの始まり。

移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。

山口県玖珂郡和木町、岩国市のすぐ北、広島との県境で開業していた木村直躬医師に、

裕弥ちゃんのおばあさんが、そのことを告げました。1988(昭和63)年12月のことです。

木村先生はエコー(超音波)で、ただちに、杉本裕弥ちゃんが、先天性胆道閉鎖症という病気である、と診断しました。

先天性胆道閉鎖症とは、生まれつき胆汁が流れ出る道がふさがっていて、胆汁が肝臓へ流れていかないので、

黄疸が段々強くなり、しまいには、肝硬変で死に至る病です。


◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。

この世に生を受けて間もない赤ん坊が、可哀想なことに、何度も手術を受ける運命にあったのです。

木村先生の紹介で、地元山口県の国立岩國病院の小児外科により、胆管を何とか開く手術が行われました。

1度では上手く行かず、2度目の手術も失敗でした。

岩國病院の担当医から、木村先生(最初に裕弥ちゃんを診察した開業医の先生)の元に、手紙が来て、

「この子の予後はホープレス(望みがない)」とのことでした。残酷な宣告です。

それでも、裕弥ちゃんの家族は諦めませんでした。

木村先生に、何とか手段は無いか、と聞きました。先生は肝移植以外に道はない。といいました。

日本では、移植手術はタブーとされていました。

1968年札幌医大で行われた日本初の心臓移植手術の失敗が、その背景にありますが、その説明は省きます。

日本木村先生はオーストラリアの病院に問い合わせましたが、オーストラリアの病院は

「生体肝移植は難しくて無理だ。」という、つれない返事をよこしてきました。

しかし、木村先生も諦めませんでした。


◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。

木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。

木村先生は内科、永末先生は外科ですが、肝臓を専門とすることで共通していました。

木村先生がエコーで肝臓ガンを診断し、永末先生が切除可能な肝ガンの手術を6年間で200例も手がけていました。

木村先生は「生体肝移植を頼むなら、(島根医大に移った)永末君しかいない」と思いました。

永末先生は、最初あまり乗り気ではなく、オーストラリアの病院で手術を受けることを進めました。

これは、前述の通り当時の日本の医学界で「移植」という言葉はタブーだったのです。

このタブーを破った医師は、医師生命を絶たれる危険がありました。ですから、最初に永末先生が積極的ではなかったことも、

無理からぬことだったと言って良いでしょう。

ところが、木村先生は諦めませんでした。講演のため、広島に来た永末先生に会い、

とにかく裕弥ちゃんの診察だけでもしてくれ、と、頼みました。永末先生は引き受けました。

永末医師が初めて診る裕弥ちゃんは、黄疸が強く出ていて、溜まった腹水でおなかがパンパンに膨れて、静脈が浮き出ていました。

既に食道静脈瘤が出来ている可能性があり、これでは、いつ吐血してもおかしくない。

吐血しなくてもあと1ヶ月ほどの命、と永末先生は思いました。まだ、生後一年経っていない赤ん坊が肝硬変です。残酷な現実でした。

裕弥ちゃんの体力が移植手術に耐えられるか、五分五分だと考えました。


◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。

永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、


  • 正確なことは精密検査をしないと分からないが、移植手術は出来そうなこと。

  • 但し、島根医大の永末医師のグループでは生体肝移植の経験がないので、上手くいくかどうか保証できないこと。

  • 手術まで持ち込めても、裕弥ちゃんの全身状態があまりにも悪いので、手術に持ちこたえられずに亡くなる可能性も高いこと、


という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。

永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。
このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。

そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。
「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」

15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。
「お願いします」

その言葉に永末先生の気持ちが動きました。

「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。

ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。


◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。

永末先生の気持ちは固まりました。

当時永末先生は助教授でしたから、第二外科の部長中村教授の了解も取り付けました。

自分の研究室に戻った永末先生は、肝臓グループの医師たちに、裕弥ちゃんの生体肝移植を引き受けることにした、と言いました。

医師達は全員無言になりました。

「日本で初めての生体肝移植」であることに加え、裕弥ちゃんの症状が悪すぎる、と専門医たちは誰もが思ったのです。

スタッフが躊躇っているのを見て、永末先生は、言いました。

「赤ちゃんは死にかけている。家族は結果は問わないからやってくれという。責任は全て私が取る。目の前の赤ちゃんを救えないような研究なら意味は無い。もしこの移植を拒むなら、明日から移植の研究など止めてしまおう

第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。


◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。

手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。

中村先生は、心配していました。

「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。

しかし、君はこの手術で全てを失うかも知れない。僕はそれがいちばん心配だ。本当に君はそうなってもかまわないのか」

その都度、永末先生は答えました。
「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」

この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。

しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。

後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。

「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」

淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。

これほど立派な医師を見たことがありません。

裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。

そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。

家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、

チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。

母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。

島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。

それはそれで、良いことです。

しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。

島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。

島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。

永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。

永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。

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2012.10.08

「バックミラーの証言」という番組がありました。「NHKアーカイブズ」をネットで利用出来るようにできませんか。

◆昭和2年(田中義一)か22年間(吉田茂)まで総理大臣公用車は一人のドライバーが運転していました。

学生時代に「バックミラーの証言」をいうNHKの番組を見ました。

検索したら、放送日時の記録が見つかりました。

バックミラーの証言 20人の宰相を運んだ男

昨日、負けて、勝つ ~戦後を創った男・吉田茂~ | NHK土曜ドラマスペシャルの話を書いたのですが、

その後思い出しました。

今は、首相が替わると運転士も交替するようですが、昭2年から何と戦後昭和24年第2次吉田内閣まで首相専用車(公用車)の運転士を務めた、

柄澤好三郎さんという方が、出演した、1981年、私が大学生の時に放送された番組です。当時柄澤さんは、

79歳でしたが、歴代なんと、昭和2年から、22年間というと、

田中義一、濱口雄幸、若槻禮次郞、犬養毅、齋藤實、岡田啓介、廣田弘毅、林銑十郞、近衞文麿、平沼騏一郞、

阿部信行、米内光政、東條英機、小磯國昭、鈴木貫太郞、 東久邇宮稔彦王、幣原喜重郞、吉田茂、片山哲、芦田均

で20人を超えてしまうのですが、詳しい事はわすれました。本にもなっています。
「バックミラーの証言―20人の宰相を運んだ男」

昨日、ドラマについて書いてから、ふと思ったのですが、あのドラマを制作したNHKのスタッフ、脚本家、俳優たちは、

「バックミラーの証言」を、多分、見た事がないでしょう。


私も、1981年に番組を見たときには、その真価がわかりませんでしたが、何しろ自分の目で、

昭和の初期から戦後まで全ての総理大臣を見ていた方の「証言」ですからものすごく興味深いものがあります。


私が思い出す柄澤さんのお話は、

1931(昭和5年)11月に東京駅で銃撃された濱口雄幸首相で、一命は取り留め、翌年1月退院したのですが、

既に60過ぎですから具合は悪いのです。それを野党政友会、鳩山一郎らの執拗な登壇要求に応じて国会に登場したときに、

この瀕死の老人を野党は罵倒し、とうの濱口氏は真っ青な顔色で、運転士の柄澤さんは、
「何故、同じ日本人どうしで、これほど残酷なことをいうのか、濱口さんを見ていて涙が出た」

というエピソード。

東条英機は、朝食を摂らず自宅の玄関先でデミタスカップ一杯の殆どトロトロの

濃いコーヒーを飲むだけだった、とか、自己顕示欲が強かったのでしょうか。

今では警備上考えられませんが、当時は首相公用車にもオープンカーがあり、東条はそれが大好きで

気分が良いと、「オープンカー持ってこい」というので、柄澤さんは仕方なく、屋根付きをオープンカーに交換しに車庫に

戻ったことが何度もあるとのこと。


あれは、誰の時っていったかな。暗殺の危険があるので首相公邸から道路に出るときに、当時は他にクルマなんて走ってないので、

なるべく素早く(攻撃されないように)道へ飛び出すように運転した、とか、

戦後、社会党の片山哲委員長が、内閣総理大臣だったことがありますが、

柄澤さんによると
しばしば、工場労働者の集会に行くときなど、「柄澤君も一緒に見ておきなさい」といわれ、お供したが、

さすが、社会党だね。毎日、昼ご飯は、ふかしたじゃがいもだけだった。

など、恥ずかしながら、他愛もない話しか思い出せませんが、

とにかく、我々にとっては「歴史上の人物」を全て自分の目で見ていた方がテレビで「証言」していたというのは、

この番組、ただ一つだと思います。


◆著作権は勿論大事ですが、利用者の利便性を考えて頂きたいと思います。

改正著作権法とやらが施行され、確かに著作権並びに知的財産権は保護されるべきなのでしょうが、

NHKは公共放送であり、日本で最も多くの映像資料を有しており、その中には資料というよりも、

「史料」と呼んだ方が適切なのではないか、と言うぐらいの貴重な映像があります。

NHKアーカイブズという施設に行けばそれらを見ることが出来るらしいのですが、東京近辺だと埼玉の川口にあり、

平日は17時までだし、そもそも、いちいち、そんなところまで、面倒臭くて見に行けません。

NHKオンデマンドというネット配信サービスがありますけども、

これは基本的には、最近の番組をネットでストリーミング配信するのが中心でこちらが過去の映像を検索することは

できません。国会図書館もネットで所蔵文献を閲覧可能にする「構想」はあるようですが、失礼ながらお役所仕事ですから、

いつになるか、分かりません。


映像と、著作権がとっくに切れた古典音楽の楽譜では、また、話が別かもしれませんが、

海外では、例えば、国際モーツァルテウム財団は、モーツァルトの全作品の楽譜をネットで無料で

見られるサービスをとっくに実行してます。

新モーツァルト全集:デジタル版

NHKの過去の映像資料を、無料で見せろとはいいません。料金を払っても構いませんが、

そもそも、これだけネットサービスが多様化しているのですから、例えば「バックミラーの証言」を検索して、

何百円か支払ったら全国どこからでも、見ることが出来ると言うぐらいのシステムを構築するのは、恐らく,

データの量は膨大なので、大変でしょうけれども、それぐらいは利用者の利便性という観点から検討して欲しいと思います。

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2012.10.07

NHK土曜ドラマ「負けて、勝つ ~戦後を創った男・吉田茂~」は、良かったと思います。

◆どうして、現在の日本の「形」が出来上がったのか、と言うこと。

NHKが9月8日から10月6日まで5回連続で毎週土曜日に放送した、

負けて、勝つ ~戦後を創った男・吉田茂~ | NHK土曜ドラマスペシャル

は、概ね良かったと思います。

学校の「日本史」では、古代史というか考古学的な「日本の黎明」から始まり、大抵現代史は途中で時間が足りなくなり

戦前、戦中、戦後、は本来「最も近い過去」で詳細までかなりはっきりと分かっているのですが、

殆ど教えないので、最近の人たちは日本が戦争に負けて、現在の国家体制が出来るまでにどのような経過を辿ったか、

を知らないと思います。


ネット上の感想を読むと、歴史に興味があり、あるいは詳しい方は、ドラマの細部を色々と指摘していましたが、

この場合、そういうことは、とりあえず、あまり書いても仕方が無いとおもいます。


前述の通り現代の歴史は、最も近い過去であるが故に、膨大な史料で細部まで分かりますから、

これを、仮に1年間の「大河ドラマ」として、つまり約50回に分けて製作するならまだしも、

5回の土曜ドラマで描こうとしたら、細部は捨象せざるを得ないだろうと思います。


歴史的状況の背景説明を役者のセリフに織り込んだら、あまりにも不自然ですし、

ナレーションや字幕で補おうとしたら、多分、セリフの100倍ぐらいの情報量になってしまうと思います。


このドラマで描かれたことを、ものすごく大雑把にまとめると、


戦後、GHQの統治下で国家の体制まで規定された日本が、どのようにして、曲がりなりにも独立国になったか。

その転換点がサンフランシスコ講和条約ですが、

そこへ至る過程で、吉田茂や白洲次郎や、その他、政治家や官僚たちなどが

如何なる役割を果たしたのか?とか、どうして日米安保条約を締結することになったのか


ということです。

若い方は、極端な話、マッカーサーもGHQも、東京裁判も、吉田茂も白洲次郎も、何にもしらないのですから、

彼らの相互の絡みの中で日本の今の国家体制の原型が出来上がるその過程を知るのは大切なことです。

講和条約があれで良かったか?安保条約締結は正しかったのか?と言う議論は歴史の「評価」であり、

また、別のことです。


兎にも角にも、少しでも現代史に興味を持ち、歴史を知る人が増えるのは良い事です。

「知識」がなければ「評価」することは、絶対にできません。


吉田茂を演じた渡辺謙さんを始め、キャスティングも適切だったと思います。

再放送が、あるかどうかしりませんが、今、番組の公式ホームページで掲示版を見たら、

相当数の「再放送希望」の書き込みがありました。

多分、再放送があるでしょうから、今回ご覧にならなかった方には、お薦めします。

「歴史の勉強になるから。」云々を抜きにしても、ドラマとして、かなり「面白い」作品だと思います。

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