カテゴリー「歴史」の記事

2009.11.14

20年前の11月13日、日本で初めての生体肝移植が行われました。

◆毎年、11月13日はこの話を書きます。

何度も同じ内容の記事をブログに書いています。

人間は、とりわけ日本人は、大切なことを直ぐに忘れる傾向にあります。

また、アクセス解析を見ると分かりますが、当ブログには毎日「初めて」の読者がいらっしゃいます。

特に若い方は、1989年11月13日に当時の島根医科大学(現在の島根大学医学部)で日本で初めての

生体肝移植が行われたことをご存じないか、まだ幼くて理解できなかったと思うのです。

当時、既に大人だった方も、忘れがちです。

だから毎年、私はリマインダーとして、同じ事を書きます。

おこがましい表現になりますが、日本で他に、これをやるブログは、

多分、存在しないと思います。


◆そもそもの始まり。

移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。

山口県玖珂郡和木町、岩国市のすぐ北、広島との県境で開業していた木村直躬医師に、

裕弥ちゃんのおばあさんが、そのことを告げました。1988(昭和63)年12月のことです。

木村先生はエコー(超音波)で、ただちに、杉本裕弥ちゃんが、先天性胆道閉鎖症という病気である、と診断しました。

先天性胆道閉鎖症とは、生まれつき胆汁が流れ出る道がふさがっていて、胆汁が肝臓へ流れていかないので、

黄疸が段々強くなり、しまいには、肝硬変で死に至る病です。


◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。

この世に生を受けて間もない赤ん坊が、可哀想なことに、何度も手術を受ける運命にあったのです。

木村先生の紹介で、地元山口県の国立岩國病院の小児外科により、胆管を何とか開く手術が行われました。

1度では上手く行かず、2度目の手術も失敗でした。

岩國病院の担当医から、木村先生(最初に裕弥ちゃんを診察した開業医の先生)の元に、手紙が来て、

「この子の予後はホープレス(望みがない)」とのことでした。残酷な宣告です。

それでも、裕弥ちゃんの家族は諦めませんでした。

木村先生に、何とか手段は無いか、と聞きました。先生は肝移植以外に道はない。といいました。

日本では、移植手術はタブーとされていました。

1968年札幌医大で行われた日本初の心臓移植手術の失敗が、その背景にありますが、その説明は省きます。

日本木村先生はオーストラリアの病院に問い合わせましたが、オーストラリアの病院は

「生体肝移植は難しくて無理だ。」という、つれない返事をよこしてきました。

しかし、木村先生も諦めませんでした。


◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。

木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。

木村先生は内科、永末先生は外科ですが、肝臓を専門とすることで共通していました。

木村先生がエコーで肝臓ガンを診断し、永末先生が切除可能な肝ガンの手術を6年間で200例も手がけていました。

木村先生は「生体肝移植を頼むなら、(島根医大に移った)永末君しかいない」と思いました。

永末先生は、最初あまり乗り気ではなく、オーストラリアの病院で手術を受けることを進めました。

これは、前述の通り当時の日本の医学界で「移植」という言葉はタブーだったのです。

このタブーを破った医師は、医師生命を絶たれる危険がありました。ですから、最初に永末先生が積極的ではなかったことも、

無理からぬことだったと言って良いでしょう。

ところが、木村先生は諦めませんでした。講演のため、広島に来た永末先生に会い、

とにかく裕弥ちゃんの診察だけでもしてくれ、と、頼みました。永末先生は引き受けました。

永末医師が初めて診る裕弥ちゃんは、黄疸が強く出ていて、溜まった腹水でおなかがパンパンに膨れて、静脈が浮き出ていました。

既に食道静脈瘤が出来ている可能性があり、これでは、いつ吐血してもおかしくない。

吐血しなくてもあと1ヶ月ほどの命、と永末先生は思いました。まだ、生後一年経っていない赤ん坊が肝硬変です。残酷な現実でした。

裕弥ちゃんの体力が移植手術に耐えられるか、五分五分だと考えました。


◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。

永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、


  • 正確なことは精密検査をしないと分からないが、移植手術は出来そうなこと。

  • 但し、島根医大の永末医師のグループでは生体肝移植の経験がないので、上手くいくかどうか保証できないこと。

  • 手術まで持ち込めても、裕弥ちゃんの全身状態があまりにも悪いので、手術に持ちこたえられずに亡くなる可能性も高いこと、


という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。

永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。
このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。

そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。
「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」

15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。
「お願いします」

その言葉に永末先生の気持ちが動きました。

「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。

ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。


◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。

永末先生の気持ちは固まりました。

当時永末先生は助教授でしたから、第二外科の部長中村教授の了解も取り付けました。

自分の研究室に戻った永末先生は、肝臓グループの医師たちに、裕弥ちゃんの生体肝移植を引き受けることにした、と言いました。

医師達は全員無言になりました。

「日本で初めての生体肝移植」であることに加え、裕弥ちゃんの症状が悪すぎる、と専門医たちは誰もが思ったのです。

スタッフが躊躇っているのを見て、永末先生は、言いました。

「赤ちゃんは死にかけている。家族は結果は問わないからやってくれという。責任は全て私が取る。目の前の赤ちゃんを救えないような研究なら意味は無い。もしこの移植を拒むなら、明日から移植の研究など止めてしまおう

第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。


◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。

手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。

中村先生は、心配していました。

「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。

しかし、君はこの手術で全てを失うかも知れない。僕はそれがいちばん心配だ。本当に君はそうなってもかまわないのか」

その都度、永末先生は答えました。
「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」

この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。

しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。

後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。

「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」

淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。

これほど立派な医師を見たことがありません。

裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。

そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。

家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、

チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。

母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。

島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。

それはそれで、良いことです。

しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。

島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。

島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。

永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。

永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。

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2009.10.08

「体育の日」って、どういう日だか知ってます(特に若い人)?

◆元々体育の日は10月10日で固定されていました。1964(昭和39)年、東京オリンピック開会式の日です。

現在は「ハッピーマンデー法」により、「体育の日」は10月の第2月曜と決まっているが、これを動かされたのは、

少々残念であった。日本人にとって、長い間、体育の日=10月10日=東京オリンピックの開会式の日として記憶されていたからである。

10月10日は気象庁の定義による「晴れの特異日」ではないのだが、私の年代以上の人は皆しっているが、10月10日の「体育の日」は、

ほとんど間違いなく晴れるのである(少なくとも、印象としては)。

だから、昔から小学校・中学校が「秋の大運動会」を行うのは、10月10日の「体育の日」と相場が決まっていたのである。


◆2016年のオリンピック招致には失敗し、景気は悪い、台風は来る。気が滅入るから東京オリンピックの開会式映像を。

いや、2016年の東京オリンピックはやらなくて良いと思っていたし、今も、

個人的には、何の感情の起伏も無いのだが、流石に石原慎太郎サンもしょげてるから、

なんか、気の毒になってね。漠然とYouTubeで「オリンピック」を検索していたら、

なんと、東京オリンピック開会式の映像が見つかった。45年前の映像とは思えないほど、鮮明である。

最初にNHKの中継映像の抜萃をご覧頂く。

ここには、その言葉が記録されていないが、テレビ中継担当のNHK、北出清五郎(きたで せいごろう)アナウンサーは、

中継開始冒頭で、
世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます。

と、述べた。誠に見事な表現力。名文句である。

聖火の最終ランナー、陸上の坂井義則選手は、1945年6月6日、原爆が投下された1時間半後、広島県三次(みよし)市 で生まれた。

あえて平和の象徴として、選ばれた人である。それでは映像を。


東京オリンピック 開会式 (1964年)







どうですか?知らない世代は何も感じないかな?もっとも私も四歳だったから辛うじて微かに覚えている、

という方が正しいかも知れない。ただし、この抜けるような見事な青空は実際に見て覚えているように感じる。

これを見て思うけど、やっぱり、入場行進っていうのは、これだよね。

最近のオリンピックって、マーチを演奏するのに、各国選手団は足並みをそろえないでしょ?

勝手にだらだら、歩いているけど、この映像を見ると、大勢の人間が音楽に合わせて、背筋を伸ばしてきちんと歩く、

というだけのことが、これほど美しいものか、と思いますね。



さて、この映像では、航空自衛隊、ブルーインパルスがスモークで、五輪を空中に描く場面が映っていない。

後に市川崑監督が東京オリンピックの記録映画を作ったが、そちらには含まれているから、

重複する部分もあるけど見て下さい。ブルーインパルスは最後7分40秒に出てきます。







ブルーインパルスの自衛隊員はこの日ために血の滲むような練習を重ねたのだ

何しろ、絶対失敗できませんからね。ものすごいプレッシャーの下で、想像を絶する難しい

フライトを成功させたのだ。立派である。と、書くと勘違いする人が必ずいるので断っておくが、

私は、過去において、日記に幾度となく書いたとおり、憲法改正にも集団的自衛権行使にも反対である。

しかし、それとこれとは無関係だ。ブルーインパルスの偉業を讃えたい。


◆あまりにも音質が悪かったから、東京オリンピックマーチと、ファンファーレだけ別に。

入場行進に使われた、古関裕而作曲の東京オリンピックマーチ。映像では音質があまりにも悪いので、

改めて。演奏は陸上自衛隊中央音楽隊。



オリンピックマーチ。







東京オリンピックファンファーレ。







いいですね。やはり、懐かしい。

それでは。

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2009.08.10

1年前に「また、8月12日がやってきました。」という記事を書きました。

◆1年365日、「123便 ボイスレコーダー」で検索してアクセスする人がいる。

1年前の8月12日付で、また、8月12日がやってきました。ココログ
と題する文章を載せた。

その時にも書いたが、24年前にあの事故を会社からの帰り道に本屋のラジオから流れるNHKニュースを聴いて、

あまりの、ことの大きさに、大袈裟ではなく膝がガクガクと震えたのを良く覚えている。

私の身内や知人に、事故の被害者や、事故後の処理、取材などに関わった人間はただの一人もいないが、

今でも、あの悪夢の日々(事故の後の様子が何日にも亘って報道された)は、殆どトラウマのようになっている。


あれから約四半世紀を経て、事故当時生まれていなかったり、幼くて事故の意味が分からなかった人が

1985年8月12日の日航123便墜落事故に関心を持つのは、無理もない事かも知れぬ。

私の日記・ブログのアクセス解析で、「検索ワード」を見ると、1年365日、必ず、

123便 ボイスレコーダー

とか、
御巣鷹山 ボイスレコーダー

とか、
123便 高浜機長

が含まれている。昨年、以前は他の方が公開していた、ボイスレコーダーと123便の飛行ルートを

FLASHでシンクロさせたファイルが閉鎖されたので、「真面目に聴くなら」という条件付きで、

昨年、そのファイルを私の日記、ブログに載せた。そしてこう書いた。
若い人。頼むから、真面目に聞いてくれ。自らの死が迫っていることを悟りながら、乗客を守るために、最後まで懸命に機を立て直そうとした、

コクピットクルーの責任感と、必死の努力を感じて、冥福を祈って欲しい。勿論、キャビン・クルーや乗客の冥福も祈って欲しい。

と。さらに、続けた。

123便に関しては過去に何本も記事を書いている。それも読んでくれ、と。

ボイスレコーダーを面白半分で聴くな、ということは去年に限らず、過去、何度もかいた。以前、リンク先を辿ったら、
「面白いから、是非見るように」

と書いていた奴がいたからである。

昨年、音声とFLASHをシンクロさせたファイルを掲載したときにも、

面白半分で聴いているのでないのならば、感想をコメント欄に書いてくれ、とお願いした。しかし、

また、8月12日がやってきました。(ココログ)のコメント欄を見ると明らかだが、

真面目なコメントを寄せてくださったのは、1人だけだった。


あまりにも重たい事件、悲惨な出来事だから、簡単にコメントを書けない、ということかもしれないが、

たった1人しか、コメント出来ないというのは、どういうこと?

やはり面白半分だったの?

と思ってしまう。

昨年、「不真面目なリンクがあったら、例のファイルは削除する」、と書いた。

不真面目なリンクは発見していないが、これだけ多くのひとが件(くだん)の画像と音声を見て、ききながら、

感想を一言も残さなかったという事実にがっかりした。

結局、面白半分だったのか。


今はYouTubeでもっと「面白い」、CGとボイスレコーダーの音声を組み合わせたファイルがあるらしい。

そちらを見れば良いだろう。私のサイトから、あのファイルは削除する。


そして、安易に123便の墜落時の様子だけをネットで見るのではなく、

墜落遺体―御巣鷹山の日航機123便

日航ジャンボ機墜落―朝日新聞の24時

勝者もなく、敗者もなく

茜雲 総集編―日航機御巣鷹山墜落事故遺族の二〇年

などの本ぐらいは、最低読まれたい。

はっきり言って辛い。暫く気分が落ちこんで立ち直れないかも知れない。

だが、123便のことを知りたいなら、それぐらいの覚悟がないと、ダメだ。

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(私事ながら、8月10日は私の誕生日である。ボタンぐらい押してくださいよ。)

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2009.01.19

「センター試験終了」とりあえずご苦労さんでした。

◆記事:センター試験全日程終了 700人超、再試験対象に(共同通信)(2009/01/18 20:27)

大学入試センター試験は日程2日目の18日、全国738の会場で、残る理科と数学を実施し、予定していた6教科28科目のすべての試験を終えた。

横浜市の横浜国大では、午後に行われた「理科総合A」などの試験中、設定ミスで約25秒間チャイムが鳴り続け、443人が再試験の対象となった。

大学入試センターの集計では、再試験対象者は2日間で8会場の計718人。昨年の1213人より減ったが、監督者が誤って試験時間を早く終了させたり、

試験冒頭に行う問題の訂正部分の説明を忘れたりした例もあった。

埼玉県越谷市の文教大では、東武伊勢崎線北越谷駅で起きた人身事故で運行乱れのため、午前の「数学1・A」の開始時間を55分繰り下げ、

827人に影響した。同様に、独協大、共栄大でも計5人が試験時間を遅らせて受験した。

トラブルが相次いだ17日の英語のリスニングでは、多摩大(東京)で、受験生1人が機器の不具合を訴えていたことが新たに判明。

今年の再テスト対象者は計254人となり、うち再テストを受けたのは計249人だった。


◆コメント:再試験云々(うんぬん)はどうでも良くてですね。センター試験で学力が分かるのかいな?

「大学入試センター試験」が始まったのは、1990年だが、その前身は「大学共通1次試験」で、更に大元は1979年に開始された、

「国公立大学共通一次試験」です。私はこの「国公立大学共通一次試験」第一回目の受験生でした。なんと30年前です。


たまらなかったですね。何しろ初めての試みでしょ?「過去問」が無いのですよ。対策の立てようが無い。

趣旨としては、重箱の隅をつつくような奇問・珍問を廃して、基礎学力をまともに身につけていることを確かめようということだったから、

それほど難しいものではなかったが、何だか新制度の「生け贄」になるようで嫌でした。

えーと、「国公立大学共通一次試験」はその後「大学共通1次試験」と改称されて、1989年まで続いたのですね。

そして、1990年から現在の「大学入試センター試験」となって、私立大学も利用できるようになった、ということですね。

懐かしいです。

私は現役で何処かの大学に合格していたら、「共通一次」を受けなくて済んだのですが、一浪してしまったが為に、「共通1次試験」元年の

受験生になってしまったのでした。ま、おっさんの昔話はこの辺にします。


問題にしたいのは、新聞などもしきりに書いていますが、大学生の学力の低下、ということです。

勿論、今でも秀才はちゃんといて、私などより、知識も思考力も優れた若い人が沢山いることは知っています。

しかし、先日、偶然(今まで見たことが無かったのですが)TBSの「久米宏のテレビってヤツは!? 」という番組で、

「成人の日」に因んで、新成人を取りあげていました。テレビ番組はいくらでも印象を操作出来ることは承知していますが、

所謂「一流大学」の学生さんに「太平洋戦争がいつ終わったか?」という質問をしたら、

昭和50年頃ですか?

との答えが複数の学生さんから返ってきました。繰り返しますが、こういうのは、正しく答えた人の映像はカットして、

極端に頓珍漢な答えをした人の映像だけ、に編集したかも知れませんので、あの番組だけを根拠に「今の学生は・・・・」というのは、

早計なのです。

ところがこれだけではなくて、以前、立花隆さんがネットに連載していたコラム、立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」(今は過去ログも読めない)

で、東大で講義枠を持っていた立花氏が実際に体験したというから本当のことだろうけど、東大生が、
先生、今、公明党って与党なんですね。

と、あっけらかんと訊いてきたので絶句した、という話もありました。「公明党って与党なんですね」も相当だけど、

いくら何でもですね。太平洋戦争が終わったのが、しょ、昭和50年頃って・・・・。

日本は、1975年まで戦争してたの? ってことは、私は1960年生まれだから、戦前の生まれ?

私、B29とか見たこと有る訳ね?玉音放送も聴いたことになっちゃうの?

ということで、流石に、開いた口が塞がりませんでした。日本の歴史を全然知らないといって良いでしょう。

これは、問題ですよね。どう考えても。

どうしてこうなったか色々な背景があるでしょうが、

「1989年の学習指導要領で高等学校社会科が地理歴史科と公民科に分割され、地理歴史科の科目として日本史を学ぶようになった。」そうですが、

日本史は必修じゃないのですね。

高校の歴史は、世界史は必修だけど、後は地理か日本史を選択出来るそうで、

つまり、全然日本史を高校で勉強しなくても、卒業出来てしまうのですね。


これ、不味いと思います。世界史の知識が無くて良いとは言いませんけど、まず自分の国の歴史ぐらい・・・・。


でもねえ。高校で日本史を勉強しなくても、太平洋戦争が始まったのは、真珠湾攻撃の昭和16(1941)年12月8日(日本時間)で、

終戦は昭和20(1945)年8月15日であることぐらい、日本人の常識だろう、と言いたくなるのは私だけではないと思うのです。

そう言うことも知らない人が大学生になることが出来てしまう「センター試験」って、このままで良いのですかね。

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2008.12.29

「ガザ連日の空爆、死者280人以上…長期化の懸念も」←「ものすごく大雑把なパレスチナ問題の基礎知識」を以前、書きました。

◆記事:ガザ連日の空爆、死者280人以上…長期化の懸念も(12月28日22時41分配信 読売新聞)

【エルサレム=福島利之】イスラエル軍は28日、イスラム原理主義組織ハマスが実効支配するパレスチナ自治区ガザへの大規模空爆を続行し、

現地の医療関係者によると、27日からの攻撃による死者は282人、負傷者は600人以上に達した。

ハマスは徹底抗戦の構えを見せており、軍事作戦が長期化する懸念が高まっている。

AFP通信などによると、イスラエル軍は28日、ハマスのテレビ局や、イスラエル軍が「テロ活動の拠点」と見なす

モスク(イスラム教礼拝所)、警察施設など20か所を空爆した。これまでの死者の大半はハマス治安部隊隊員とされるが、

パレスチナ側は、民間人15人が死亡し、400人以上が負傷したとしている。イスラエルのバラク国防相は28日、

ガザでの軍事作戦について、「市民を守るために地上部隊を展開する必要があれば、そうする」と述べ、

地上からの軍事作戦にも乗り出す可能性を明らかにした。イスラエル軍は、ガザとの境界沿いに地上部隊を集結させているとの報道もある。

イスラエル政府はこの日の閣議で、6500人の予備役を招集することを承認した。

一方、ガザの武装勢力はイスラエル領内に向け、ロケット弾による報復攻撃を本格化させている。

イスラエル軍による空爆後、ヨルダン川西岸のパレスチナ住民が抗議の投石行動に出ているほか、

周辺のアラブ諸国でも、イスラエルを非難するデモが広がっている。


◆コメント:そもそも、アラブ・イスラエル紛争とは何か、を分かっていないと仕方がない。

パレスチナにおける、アラブとイスラエルの報復合戦はもう半世紀以上も続いていて、もう、未来永劫終わらないのではないか、

と思えてきます。

今回のイスラエル軍のガザへの攻撃や、それに対するイスラム過激派のイスラエルに対する報復だけを見ても何も分かりません。

ずっと前、私はこの問題の基礎知識を稚拙ながらもまとめ、記事にしたことがありますから、多少面倒でも、読んで下さい。

2003年10月16日(木) 「<パレスチナ>帰還権放棄を言及 神殿の丘領有と引き替えに」 ものすごく大雑把なパレスチナ問題の基礎知識

5年以上も前の記事ですが、そもそもパレスチナ問題、アラブ・イスラエル紛争は何故起きたのか、について、概略は分かると思います。

当時は、ウェブ日記エンピツしか、書いていませんでした(「ブログ」が流行り始める前の事です)。

今、見ると、タグも満足に知らない状態で「ベタ打ち」しているので、読み辛く、恐縮ですが、基礎知識を得る参考になれば幸いです。


リンク先を読んでいただけば良いのですが、要するに、遙か昔、パレスチナにはユダヤ人が住んでいたのですが、

紀元2世紀頃、ユダヤ人の王国はローマ帝国によって滅ぼされ、その後ユダヤ人や世界各地に散り散りとなり、

どこでも、千数百年にわたって、迫害されてきたのです。


19世紀に、ユダヤ人の国を再建しようという運動が始まり、紆余曲折を経て、第二次大戦後に、パレスチナに建国したユダヤ人の国がイスラエルです。

しかし、ユダヤ人がいない間に、当然そこには他の民族(アラブ人)が住み着いていたわけです。イスラエルの建国と共に、彼らはパレスチナから

追い出されました。逆の立場になってしまったわけです。


パレスチナでユダヤ人とアラブ人が少しずつ土地を分け合い平和に共存してくれれば良いのですが、

何しろ、ユダヤ人には千数百年の積年の恨みがあるから、譲歩しようとしない。今の国を何が何でも死守しようとする。

すこしでもアラブ人が、敵対的な態度を見せると過剰に反応して、今回のような爆撃を行い、非戦闘員(女、子どもまで)を大量殺戮する。

これに対して、アラブ人もイスラム過激派が武装集団を結成して(これにも色々な系統があるのです)、武力で対抗する。


要するにその繰り返しがいつまで経っても終わらないのです。


アメリカでは、ユダヤ系が大勢いて、政治勢力になっているので、歴代政府はイスラエルを支持するのです。

そうしないと、選挙で勝てないのです。だから、国連安全保障理事会がパレスチナで武力紛争が起きて停戦決議案を可決しよう、

というときに、アメリカが拒否権を発動することもあり、問題の解決を遅らせています。それだけが原因ではないけれど、

アラブ・イスラエル紛争がいつまで経っても終わらない一因であることも確かなのです。

但し、喧嘩両成敗ですから、武力攻撃されたら、必ず武力で報復することを止めないアラブ側にも責任はある。

どちらも悪いのです。

兎にも角にも、世界には、今、この瞬間にも凄惨な殺し合いが続いている場所がある、ということは認識するべきです。

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2008.12.03

「<山本五十六>「述志」2通発見、日米開戦の心情つづる」←山本さん、三国同盟にも開戦にも大反対だったのは、周知の事実。

◆記事:<山本五十六>「述志」2通発見、日米開戦の心情つづる(12月2日12時45分配信 毎日新聞)

旧日本海軍の山本五十六(いそろく)・連合艦隊司令長官(1884~1943年)が、太平洋戦争が始まった

1941年(昭和16年)12月8日などに自らの心情をつづった直筆文書が見つかった。

親交のあった大分出身の海軍中将、堀悌吉(1883~1959年)の孫宅(東京都)に保管されていた。

今月6~14日に、大分市の大分県立先哲史料館で展示される。

文書は「述志」のタイトルで、1939年年5月31日付と41年12月8日付の2通。

 前者は日独伊三国同盟を結ぶ前、海軍次官の立場で

 「俗論を排し 斃(たお)れて後 已(や)むの難きを知らむ」と俗論(同盟締結論)を排除する困難さを言葉にした。

後者は真珠湾攻撃に臨まざるを得ない状況にあたり「己を潔くせむの私心ありてはとても此(この)大任は成し遂け得まし」

などと決意をつづっていた。山本長官は三国同盟締結や日米開戦に反対する立場だったことから、

史料館は両文書は遺書的な性格を帯びているとみている。

両文書は堀中将の記録集に掲載され、内容と存在は知られていた。調査・発見した史料館の安田晃子主幹研究員は

「本当に山本の言葉だったのかとこれまで疑う向きもあったが、真実だと裏付ける貴重な資料」と話している。


◆コメント:全然意外ではない。山本五十六、米内光政、井上成美は、開戦に徹頭徹尾反対だった。

私が、ゴチャゴチャ綴るよりも、皆さん、阿川弘之氏の三部作を読んで頂きたい。それは、

山本五十六(上)(下)

米内光政

井上成美

である。

戦前の海軍軍人である。海軍大将にまで、なった人たちだ。言うまでもなく戦前の日本は、「専守防衛」ではない。

「軍人」は戦をするかも知れない、という前提で教育を受けて来た、「戦争のプロ」の筈だが、

山本、米内、井上は、「海軍リベラル三羽ガラス」などと新聞記者たちの間でも有名なほど、柔軟で合理的で現実的な思想を持っていた。

日本が、ヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアと三国同盟を締結するときに、三人は大反対だった。

山本は、「戦争になる。こんな条約を締結したら、アメリカ、イギリスと戦争になる」(その通りになった)とカンカンに怒った。

この時期海軍次官だった、海軍省には、毎日の様に右翼やら何やら訳の分からない、頭の悪い奴らが来て、「三国同盟を締結しろ」と脅迫した。

あまりにもすさまじいので、山本五十六は死を覚悟し、「述志」と題する文章、要するに遺書を書いていることは、阿川弘之著、

山本五十六(上)の264ページに記されている。

今般その原本が見つかったということだが、内容自体は山本の思想からすれば当然であって、脅迫されたぐらいで「三国同盟反対」の意見を変えるつもりは無かった。

井上は、戦争が始まる年、昭和16年1月、中将で海軍の航空本部長だった。「新軍備計画論」という「論文」を上司である海軍次官、大臣に提出した。

自分が正しいと思ったら、上司であろうがだれであろうが、あくまで意見を曲げない人だった。この「論文」は先日の元自衛隊の誰かさんの「論文」とは

大違いである。
「日本が米英を破り彼を屈服する(引用者注:米英を屈服させる、という意味)事は不可能なり。その理由は極めて明白にして・・・・」

工業力の差が比べものにならない。その上、明治の頭で昭和の軍備をやっても意味がない。戦艦なんかより、航空機に力を置きなさい、

このまま対米戦争なんかに突入したら、アメリカは、
「1.日本国全土の占領が可能、2.首都の占領も可能、3,作戦軍の殲滅(せんめつ)も可能」

井上の予想は完全に的中したが、当時の日本では、この程度の常識的な判断も受け入れられず、この後、井上は暫く閑職に左遷される。

米内光政は、普段は寡黙な人だったが、平沼内閣の海軍大臣時代、1938(昭和13年)、

8月8日の五相会議(昭和時代前期の日本において、内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣の5閣僚によって開催された会議)の席上、
石渡蔵相から、
「三国同盟を締結するのならば、日独伊三国が英仏米ソの四国を相手に戦争することを考えねばならず、その場合、

八割は海軍によって戦われると思います。ついては、海軍大臣のご意見を聞きたいが、日独伊の海軍が英仏米ソの海軍と戦って、

勝算はありますか?」

と、質問されたときには、極めて明確に、
「勝てる見込みはありません。大体日本の海軍は米英を向こうに回して戦争するように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません。」

と答えた。

少なくとも、海軍の山本五十六、米内光政、井上成美の3人の大将、中将には、アメリカと戦争をするなど、正気の沙汰とは思えなかった。

そして、命を賭して戦争を防ごうとしたが、大衆は愚かで、一度世論が「鬼畜米英」に傾きだしたらどうしようもなかったのである。


◆一番戦争に反対していた山本五十六が連合艦隊司令長官として、真珠湾攻撃を計画、実行しなければならなかった悲劇。

平沼内閣が総辞職して、米内光政が海軍大臣を辞することになり、山本五十六は引き続き後任大臣の次官を務めるつもりでいたが、

米内の配慮で、洋上に異動となった。連合艦隊司令長官だった。

本来なら、海軍軍人誰もが憧れる最も晴れがましいポストであるが、これが、山本五十六の悲劇の始まりだった。

三国同盟締結後、世の中は急激に右旋回し、日米戦争やむなし、の情勢となった。


山本は、若い頃は駐米日本大使館の駐在武官(大使館に常駐する軍人)としてワシントンに住み、

英語が堪能で、バクチ好きだから、アメリカ人のポーカー仲間も沢山いた。

また、暇を見つけては、自費でアメリカ各地を見学にいった。デトロイトの自動車産業も実際に見た。

だから、日本がアメリカと戦争をすることがいくら無茶苦茶なことか、一番分かっていた人なのである。

しかし、運悪く開戦時に連合艦隊司令長官だったから、戦略を考えなければならなかった。

山本が、いつから真珠湾攻撃を念頭に描いていたかは、定かではない。

どうしても、戦争をするなら、太平洋艦隊の基地に奇襲攻撃をかけて、出来れば米海軍の空母を沈めて、

戦局が日本に有利なうちに早期講和条約を締結して終戦させるしかない、と考えていたようだ。

しかし、決して喜んでいたのではない。開戦直前の昭和16年の10月に海軍大臣に当てた長い手紙の中で、山本五十六は、

「大局より考慮すれば日米衝突は避けられるものならば此を避け、この際隠忍自戒臥薪嘗胆すべきは勿論なるも

それには非常の勇気と力とを要し、今日の事態にまで追い込まれたる日本が果たして左様に転機し得べきか

申すも畏き事ながらただ残されたるは尊き聖断の一途のみと恐懼する次第に御座候」

つまり、ここまで来たら、最後の可能性は、天皇陛下が「戦争をしてはならぬ」と言って下さることを、

祈るだけだ、というのである。戦前だから、日本の軍隊は全員陛下の部下なのである。陛下が「絶対戦争したら、ダメだ」

と言ったら、その命令は絶対であり、日本は戦争するわけにはいかなかった。戦争しなくて済んだのである。


山本はまた、連合艦隊司令部で「真珠湾をやる」と宣言し、図上演習をおこなった、昭和16年10月11日付で堀悌吉宛に書いた手紙で、
「個人としての意見(引用者注:開戦反対ということ)と正確に正反対の決意を固めその方向に一途邁進の外(ほか)なき

現在の立場は、誠に変なもの也。これも命というものか」

と、書いている。阿川さんは、
「個人としての意見と正確に正反対の決意を固め」というような言葉は、彼は他の人には決して言わなかった。

山本は苦しく、本当にやりきれない思いであったろう。ある意味で、一番ハワイに行きたくなかったのは、山本五十六自身であった。」

と書いているが、正にその通りだと思われる。


◆「百年兵を養うは、ただただ、平和を守らんが為である。」

山本は11月13日に、各艦隊の司令長官、参謀長、先任参謀らを集め、真珠湾作戦の説明をした。

「但し」と彼は付け加えた。

「目下ワシントンで行われている日米交渉が成立した場合は、出動部隊に引揚を命ずるから、その命令をうけたときは、

たとえ攻撃隊が母艦発進後であっても直ちに反転、帰航してもらいたい」

それに対して、機動部隊の司令長が、「一旦、出てから戻ることなど無理だ」と反論した。

他にもそれに同意する指揮官がいた。山本は顔色を変えた。
「百年兵を養うは、何のためだと思っているか。ただただ、平和を守らんが為である。もしこの命令に従えないと思う指揮官があるなら、

ただいまから、出動を禁止する。即刻辞表を出せ」

と言った。言葉を返す者は一人もいなかったそうだ。

一番、戦争をしたくなかった軍人が、真珠湾の総責任者だったのである。

何という悲劇だろうか。

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2008.11.14

19年前の11月13日、日本初の生体肝移植が行われました。

◆毎年書いていますが、今年も書きます。忘れてはいけないことだからです。

人間の崇高で偉大な行為は忘れられるべきではありません。

デール・カーネギーが書いているように、世の中の殆どの人間は、1日の99%は、「自分の事だけ」を考えて

生きています。20年近く前に行われた、赤の他人の手術のことなどすぐに忘れてしまいます。

だから、私は殆ど毎年、この話を思い出して頂くべく、書くことにしています。

昨年と内容は全く同じですが、去年読まなかったが、今年は読んで下さる方もいるでしょう。

今日、初めて、この歴史的事実を知る人もいるでしょう。繰り返し、同じ事を書くということは、

大事なことなのです。今日、全国紙にざっと目を通しましたが、この話に触れている新聞はありませんでした。

テレビは、全て見るのは不可能ですので、或いは何処かのテレビが取りあげたかも知れませんが、私の見た範囲内では、

どのテレビ局も「19年前、日本初の生体肝移植手術が島根医大で行われた」ことを伝えていませんでした。

だから、私がやります。


◆そもそもの始まり。

移植手術の患者は、生後間もない杉本裕弥ちゃんでした。生後1ヶ月検診で黄疸がある、と言われました。

山口県玖珂郡和木町、岩国市のすぐ北、広島との県境で開業していた木村直躬医師に、

裕弥ちゃんのおばあさんが、そのことを告げました。1988(昭和63)年12月のことです。

木村先生はエコー(超音波)で、ただちに、杉本裕弥ちゃんが、先天性胆道閉鎖症という病気である、と診断しました。

先天性胆道閉鎖症とは、生まれつき胆汁が流れ出る道がふさがっていて、胆汁が肝臓へ流れていかないので、

黄疸が段々強くなり、しまいには、肝硬変で死に至る病です。


◆杉本裕弥ちゃんは、移植以前に、胆道閉鎖症の専門家による手術をうけましたが、上手く行きませんでした。

この世に生を受けて間もない赤ん坊が、可哀想なことに、何度も手術を受ける運命にあったのです。

木村先生の紹介で、地元山口県の国立岩國病院の小児外科により、胆管を何とか開く手術が行われました。

1度では上手く行かず、2度目の手術も失敗でした。

岩國病院の担当医から、木村先生(最初に裕弥ちゃんを診察した開業医の先生)の元に、手紙が来て、

「この子の予後はホープレス(望みがない)」とのことでした。残酷な宣告です。

それでも、裕弥ちゃんの家族は諦めませんでした。

木村先生に、何とか手段は無いか、と聞きました。先生は肝移植以外に道はない。といいました。

日本では、移植手術はタブーとされていました。

1968年札幌医大で行われた日本初の心臓移植手術の失敗が、その背景にありますが、その説明は省きます。

日本木村先生はオーストラリアの病院に問い合わせましたが、オーストラリアの病院は

「生体肝移植は難しくて無理だ。」という、つれない返事をよこしてきました。

しかし、木村先生も諦めませんでした。


◆木村先生は、「移植手術を頼むなら、島根医大の永末先生しかない」と考えました。

木村先生の頭に浮かんだのは、九州大学医学部の後輩で、広島赤十字病院で同僚だった永末直文医師でした。

木村先生は内科、永末先生は外科ですが、肝臓を専門とすることで共通していました。

木村先生がエコーで肝臓ガンを診断し、永末先生が切除可能な肝ガンの手術を6年間で200例も手がけていました。

木村先生は「生体肝移植を頼むなら、(島根医大に移った)永末君しかいない」と思いました。

永末先生は、最初あまり乗り気ではなく、オーストラリアの病院で手術を受けることを進めました。

これは、前述の通り当時の日本の医学界で「移植」という言葉はタブーだったのです。

このタブーを破った医師は、医師生命を絶たれる危険がありました。ですから、最初に永末先生が積極的ではなかったことも、

無理からぬことだったと言って良いでしょう。

ところが、木村先生は諦めませんでした。講演のため、広島に来た永末先生に会い、

とにかく裕弥ちゃんの診察だけでもしてくれ、と、頼みました。永末先生は引き受けました。

永末医師が初めて診る裕弥ちゃんは、黄疸が強く出ていて、溜まった腹水でおなかがパンパンに膨れて、静脈が浮き出ていました。

既に食道静脈瘤が出来ている可能性があり、これでは、いつ吐血してもおかしくない。

吐血しなくてもあと1ヶ月ほどの命、と永末先生は思いました。まだ、生後一年経っていない赤ん坊が肝硬変です。残酷な現実でした。

裕弥ちゃんの体力が移植手術に耐えられるか、五分五分だと考えました。


◆永末先生は裕弥ちゃんの家族にありのままを話しました。

永末医師は家族に客観的事実を説明しました。それは、


  • 正確なことは精密検査をしないと分からないが、移植手術は出来そうなこと。

  • 但し、島根医大の永末医師のグループでは生体肝移植の経験がないので、上手くいくかどうか保証できないこと。

  • 手術まで持ち込めても、裕弥ちゃんの全身状態があまりにも悪いので、手術に持ちこたえられずに亡くなる可能性も高いこと、


という内容でした。決して楽観出来る話ではありません。しかし、家族は必死でした。

永末医師は特に裕弥ちゃんの祖父政雄さんの言葉を強く覚えています。
このまま裕弥を死なせたら悔いが残ります。明弘(引用者注:裕弥ちゃんの父)の命に別状がないのなら、結果は問いません。是非手術をして下さい。

そして、政雄さんは、裕弥ちゃんの両親に言いました。
「明弘、寿美子さん。お前たちが両親なんだから、お前たちからはっきりお願いしなさい」

15秒ほどの沈黙の後、それまで寡黙だった明弘さん(裕弥ちゃんの父)が永末医師を正面から見つめ、言いました。
「お願いします」

その言葉に永末先生の気持ちが動きました。

「この人達は裕弥ちゃんを助けようと必死になっている。移植手術未経験だというのに、頼むという。

ここで失敗を恐れて背を向けたら、医師として最も大事なものを失ってしまう」と思ったのです。


◆永末先生は、島根医大第二外科全員に「この手術を断るぐらいなら、明日から肝移植の研究など止めてしまおう」と言いました。

永末先生の気持ちは固まりました。

当時永末先生は助教授でしたから、第二外科の部長中村教授の了解も取り付けました。

自分の研究室に戻った永末先生は、肝臓グループの医師たちに、裕弥ちゃんの生体肝移植を引き受けることにした、と言いました。

医師達は全員無言になりました。

「日本で初めての生体肝移植」であることに加え、裕弥ちゃんの症状が悪すぎる、と専門医たちは誰もが思ったのです。

スタッフが躊躇っているのを見て、永末先生は、言いました。

「赤ちゃんは死にかけている。責任は全て私が取る。目の前の赤ちゃんを救えないような研究なら意味は無い。もしこの移植を拒むなら、明日から移植の研究など止めてしまおう

第二外科の河野講師(当時)はこの言葉を聞いて、身体が震えたといいます。皆同じ心境だったことでしょう。


◆中村教授は「永末君、君は全てを失うかも知れない、本当にそれでいいのか?」と心配しました。

手術を行うことが決まってから、永末先生は、中村教授の部屋で何度も話し合いました。

中村先生は、心配していました。

「永末君。僕はもう13年もここの教授をしていて思い残すことはない。福岡へ帰れば済む。

しかし、君はこの手術で全てを失うかも知れない。僕はそれがいちばん心配だ。本当に君はそうなってもかまわないのか」

その都度、永末先生は答えました。
「先生。大丈夫です。誰かがやらなければならないことを、私たちがやるだけです。これで弾劾されたら、福岡へ帰って開業します」

この言葉は、決断―生体肝移植の軌跡という本(是非、読んでいただきたい)で永末先生自身が書いている言葉です。

しかし、本当はもっと悲痛な覚悟でした。

後年、NHKの「プロジェクトX」に出たとき、永末先生は、医師を辞めることさえ覚悟していた、と話しました。

「私は英語が得意なので、学習塾の英語の先生をすれば、食べていけると思ったのです」

淡々と語る永末先生を見て、私は心の底から、永末先生を尊敬しました。

これほど立派な医師を見たことがありません。

裕弥ちゃんの移植手術そのものは成功しましたが、その後、ありとあらゆる合併症が起きました。

そして、手術から285日後、1990(平成2)年8月24日、午前2時32分、亡くなりました。1歳9ヶ月の生涯でした。

家族は、手術とその後の肝臓チームのすさまじい努力、裕弥ちゃんを救おうとする苦労を目の当たりにしていたので、

チーム全員に丁重にお礼をいいました。後年、裕弥ちゃんの弟が生まれました。

母親の寿美子さんは、永末直文医師の「直」と裕弥ちゃんの「弥」をとり、「直弥」と名付けました。

島根医大第二外科が初めての生体肝移植をしたのを見届けるように、その後、京大、信州大が、数多くの生体肝移植を成功させました。

それはそれで、良いことです。

しかし、何と云っても、「最初にやる」ことを決断する勇気と覚悟は、2番目以降とは比べものになりません。

島根医大第二外科の英断と死にものぐるいの努力がなければ、こうした道は今も開けていなかったでしょう。

島根医大は、今は島根大学医学部になってしまいましたが、それはこの歴史的事実の価値に比べればどうでも良い。

永末先生とそのチームの偉業は、日本の医療の歴史に永遠に刻まれるでしょう。

永末先生が中心となり、当時の移植チームのメンバーが、思いを綴った本、決断―生体肝移植の軌跡を是非、読んで下さい。

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2008.11.11

オバマ氏の勝利演説を聴いたり読んだりしている人、多いようですが、どうせなら、過去の名演説もどうです?

◆オバマ氏が大統領選挙で勝利をおさめてから、彼の演説に感動(感心)している人が多いですね。

ずっと昔から、私が高校生のころから、英語を話す練習用の教材として、米国大統領の演説を暗唱するまで、

音読せよ(テープを聴きながら)、というのは良く言われていました。


これらの演説は本人では無くて、スピーチを書くプロ、スピーチライターというのがいるわけですれども、

やはり、何だかんだいっても、名演説が多いですね。

勿論、演説の本質はそこで述べられている思想にあるのですが、英語の練習教材に使うのは、良いことです。


◆大統領に限らず、名演説を集めたサイトをご紹介します。

まずは、トランスクリプト(transcript=口述を文字におこしたもの)集。

大統領の演説は、一度大統領になったら、年中やってますが、やはり一世一代の晴れ舞台は、大統領就任演説(inauguration speech)ですね。

歴代大統領就任演説のトランスクリプトが載っているサイトがあります。

Inaugural Addresses of the Presidents of the United Statesです。

何と、ジョージ・ワシントンから、ジョージ・ブッシュまで載っています。


でも、inauguration speechは観念的な言葉が多いですから、意味が分からないこともあります。

ご安心下さい。大統領就任演説の日本語訳を載せて下さっているサイトがあります。大統領就任演説です。

J.F.ケネディから今のジョージ・ブッシュの就任演説を翻訳して下さっています。訳して下さった方々に感謝。


次は、米国大統領に限らず、歴史に残る名演説の音声を聞けるサイト、The Free Information Society - Media in Historyです。

キング牧師、アインシュタイン、マッカーサー、ロックフェラー、ドイツ語だから意味は分からないけどヒトラーの肉声も実に明瞭に聴けます。

マーチン・ルーサー・キング牧師の有名な、「私には夢がある。」も当然載っています。

私には夢がある。それはいつの日か、私の幼い子どもたちが肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住めるようになることだ。

文字では何度も読んだことがありましたが(英語で)、キング牧師の肉声で聴くと、泣けます。


さて、最後に、これが一番すごいかな。音声も映像もトランスクリプトも一度に見て、聴けるサイトです。

American Rhetoric: The Power of Oratory in the United States。膨大なスピーチの宝庫です。

若い方でも御存知でしょう。J.F.ケネディの就任演説。“And so, my fellow Americans”(そして、わが同胞のアメリカ人よ)というの。

これは、知っておいた方が良いと思いますね。私20年ぶりぐらいに聴いて、改めて感銘を受けました。

ケネディの就任演説が載っているのはここ。John F. Kennedy Inaugural Address 映像も驚くほど鮮明です。


この演説が素晴らしいのは、今のアメリカみたいに、何でもかんでも「アメリカ、アメリカ」ではなく、

ケネディが
My fellow citizens of THE WORLD(わが同胞の世界の市民よ)

という表現を用いていることです。


◆その最も感動的な部分を観て、聴いて、読んで下さい。

映像は、先ほどのリンク、John F. Kennedy Inaugural Addressからご覧下さい。

ここでは、音声とトランスクリプトと、日本語訳を途中から抜粋して載せます。まず、音声。



その部分のトランスクリプトです。

In your hands, my fellow citizens, more than mine, will rest the final success or failure of our course.

Since this country was founded, each generation of Americans has been summoned to give testimony to its national loyalty.

The graves of young Americans who answered the call to service surround the globe.

Now the trumpet summons us again--not as a call to bear arms, though arms we need--not as a call to battle,

though embattled we are-- but a call to bear the burden of a long twilight struggle, year in and year out,

"rejoicing in hope, patient in tribulation"--a struggle against the common enemies of man: tyranny, poverty, disease and war itself.

Can we forge against these enemies a grand and global alliance, North and South, East and West,

that can assure a more fruitful life for all mankind?

Will you join in that historic effort?

In the long history of the world, only a few generations have been granted the role of defending freedom

in its hour of maximum danger. I do not shrink from this responsibility--I welcome it.

I do not believe that any of us would exchange places with any other people or any other generation.

The energy, the faith, the devotion which we bring to this endeavor will light our country and

all who serve it--and the glow from that fire can truly light the world.

And so, my fellow Americans: ask not what your country can do for you--ask what you can do for your country.

My fellow citizens of the world: ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.

Finally, whether you are citizens of America or citizens of the world,

ask of us here the same high standards of strength and sacrifice which we ask of you.

With a good conscience our only sure reward, with history the final judge of our deeds,

let us go forth to lead the land we love, asking His blessing and His help,

but knowing that here on earth God's work must truly be our own.

日本語訳です。
われわれのとる道が最終的に成功するか失敗するかは、わたし以上に、あなたがた市民の手にかかっているのだ。

この国の建国以来、アメリカ人の各世代は国家に対する忠誠を証明するために召集されてきた。

その召集に応えた若いアメリカ人の墓は世界中にある。今トランペットの音がわれわれを再び召集している。

武器は必要だが、武器をとれという召集ではない、戦ってはいるが、戦うための召集ではない、

長い夜明け前の闘争の重荷を肩に背負えという召集なのである。

いつも希望をもって喜びを抱き、苦難に耐えながら、人類の共通の敵、専制、貧困、疫病、そして戦争そのものに対して闘うという重荷を。

これらを敵にして、北も南も、東も西も、壮大な世界的な同盟をわれわれは作れないものだろうか? 

その同盟は全人類により実りある生活を保証してくれるだろう。あなたがたもこの歴史的な努力に身を投じてみないだろうか?

世界の長い歴史の中で、自由が最大の危機にさらされている時に、自由を守る役割を与えられてきた世代はごく少ない。

私はこの責任からしりごみするものではない、私はそれを歓迎する。

われわれの誰かが自分の立場を、他の人もしくは他の世代と交換するだろうなどということを私は信じない。

こうした努力にわれわれが捧げるエネルギー、信念、献身こそがわれわれの国家を、

そして国家につかえるわれわれを照らしだすのである。そしてその明かりから発せられる輝きこそが、本当に世界を照らしだすのである。



そして、わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、

あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか。

わが同胞の世界の市民よ、アメリカがあなたのために何をしてくれるかではなく、

われわれと共に人類の自由のために何ができるかを問おうではないか。

最後に、あなたがアメリカ市民であろうが、世界の市民であろうが、

われわれがあなたに求めるのと同じ高い水準の力と犠牲をここのわれわれに求めて欲しい。

良心を唯一のたしかな報酬とみなし、歴史がわれわれの行動に最終的な判断を下してくれることを信じて、

神の祝福と助けをもとめながらも、この地球上では神の仕事はわれわれ自身でなしとげなければならないということを肝に銘じて、

われわれの愛すべき国を導くために前進しよう。

やはりですね。構想(力)の範囲が違うんですよ(オバマさんとは)。

人類の共通の敵、専制、貧困、疫病、そして戦争そのものに対して闘うという重荷を敵にして、

北も南も、東も西も、壮大な世界的な同盟をわれわれは作れないものだろうか?と、世界に呼びかけている。

勿論、アメリカの大統領だから、アメリカの国益にプライオリティを置いていたのは当たり前なんですけど、

この演説当時、私はまだ幼児で、勿論、全然分からなかったけど、世界中の大人は、相当に感動したようです。

それから半世紀近くを経て、自分がその年齢になって、改めて聴いてみて、やはり、歴史的名演説だと思います。

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2008.08.12

また、8月12日がやってきました。

◆日本航空123便の墜落事故に関して、何度か書いた。

1985年8月12日に墜落し、乗員乗客520名が死亡した事故に関しては、多くのことが書籍でまた、ネット上でも綴られているから、

私が多くを語る必要は無いと思う。

毎年、この日は、123便を記事として取りあげるかどうか悩む。

事故当時、私は25歳、社会人2年目だった。会社からの帰途、書店に立ち寄ったらNHKラジオのニュースがながれていた。

一言一句覚えている訳ではないが、アナウンサーは

「午後6時過ぎ、羽田を離陸した大阪(伊丹)行きの日本航空123便が、レーダーから消えた。この飛行機には乗員・乗客520余名が乗っている」

という意味の原稿を読んでいた。

私は、航空関係者ではないが、ことの重大さはすぐに理解できた。あの、ジャンボが墜落したら・・・・と考えるだけで、

膝が震えた。


◆予想以上の悲劇だった。

この件については、過去何度か書いたので、ご参照頂きたい。

日航123便はあの30分が全てではないのだ。ココログはこちら

「ボイス・レコーダー」(TBS)視聴後、雑感。ココログはこちら

123便にまつわること。コクピットクルーのお子さんたち。ココログはこちら

日航123便のボイスレコーダーを面白半分で聴くな。ココログはこちら

私の云いたいことは、殆どこれらの記事で書いた。

ただひとつ。「日航123便のボイスレコーダーを面白半分で聴くな。」には、若い方から、

「決して面白半分で聴いているのではない。自分は事故当時中学3年だったが、これがきっかけとなり(空の安全を守るために)航空管制官になった」

というコメントも頂戴した。

私のサイトには、1年中、「123便」で検索してくる人が多い。

かつて、日航機墜落までの航跡というサイトがあり、コクピット内の会話を全て記録したボイスレコーダーと、

日航機の航跡をシンクロさせてFlashで表示していたが、どうやら、閉鎖されてしまったようである。

私は、そのファイルを保存しているから、暫定的に公開する。

若い人。頼むから、真面目に聞いてくれ。自らの死が迫っていることを悟りながら、乗客を守るために、最後まで懸命に機を立て直そうとした、

コクピットクルーの責任感と、必死の努力を感じて、冥福を祈って欲しい。勿論、キャビン・クルーや乗客の冥福も祈って欲しい。

そして、日航123便はあの30分が全てではないのだ。で紹介した本を読んで頂きたい。

不真面目なリンクがあったら、ただちにこのファイルは、このページから削除する。

ダウンロード 123f.swf (4093.2K)

面白半分でない証拠に、感じたことがあったら、コメントを書いて下さい。また、投票ボタンクリックして下さいね。

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(お断り、今日予定のモーツァルト」ジュピター、第三楽章は明日載せます。悪しからず)

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2008.08.10

今日(8月9日)は、「北京オリンピック2日目」である以前に、長崎に原爆が投下された日である。

◆日本人なら忘れてはいけないですよね。

8月は夏休みの季節だが、悲しいことが沢山ある月でもある。6日は広島に原爆が投下され、

11万人が一瞬にして、蒸発した。

今日9日には、長崎に原爆が投下された。(戦争とは無関係だが)12日は日航123便墜落の日。15日は終戦記念日である。

日本がポツダム宣言の受諾を拒否したため、アメリカは原爆投下を決めた、というのが、長い間、「常識」

と、されてきた。


しかし、2年前、「暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏 (単行本)」という本が世に出て、真実が明らかになった。

アメリカは、日本がポツダム宣言を受諾しようがしまいが、原爆投下を決定していたのである。


◆トルーマンが原爆投下の第一報を受けたときの反応。

「暗闘」や、著者に関しては、二年前に書いたココログはこちら)ので、詳しいことはリンク先をお読み頂きたい。

この本で、気分が悪くなるほど腹が立つのは、トルーマンが広島への原爆投下の報告を受けたときのことである。

トルーマンは、広島で11万人が蒸発した頃、ポツダム会談を終えて米海軍重巡洋艦「オーガスタ」にいた。

オーガスタは大西洋上を西に向けて帰国する途中だった。

不愉快きわまりないのは次である。
英国プリマス軍港を出航して四日目、ランチの最中、海軍士官が一枚のメモをトルーマン大統領に渡した。

原爆投下成功の知らせであった。その時トルーマンが示した反応は、

ほとばしるような歓喜であった。

後にトルーマンは原爆投下は苦渋の決断だった、と記しているが、大嘘だったのである。


◆何故、二回も原爆を投下しなければならなかったのか。

原爆投下後の広島の惨状は、米国側も十分知っていた。

にも関わらず、3日後、何故長崎に二回目の原爆投下を実行したか。

人体実験だったのである。原子爆弾が人体や建造物に与える影響を知るためである。

科学(嫌な科学だが)においてデータの信頼性を確保するには、少なくとも二回の実験を行い、

比較しなければならない。だから、長崎に2発目を落としたのである。

戦争を終わらせるため必要だった、と言うのもウソである。何故ドイツには原爆を投下しなかったのか?

あっちは「白人」だからである。

日本に投下したのはレイシズム(人種差別)に基づく選択である。


◆次から日米首脳会談は、広島か長崎でやったらどうだろう。

来日したアメリカ大統領で原爆資料館を見た奴、いないだろう。

ブッシュはもはや任期終わりが近い、lame duck(任期を終えても再選に出馬しない大統領)だが、

次期大統領の初来日から、日米首脳会談は、広島の原爆資料館の中で開催したらどうだろう。

別に謝罪を要求しているのではない。歴史的事実を知って貰いましょう、ということだ。

◆私事で恐縮ながら、8月10日は、私の誕生日です。

おかげさまで、48になりました。今後ともよろしく御愛読のほど、お願い申し上げます。

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